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東京都渋谷区の歴史
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所在地 渋谷区代々木3-23-3

  箒銀杏ほうきいちょう

 この大きな銀杏の木を少しはなれた所から見ると、箒を逆さにたてたように見えるところから、箒銀杏と呼ぶれてきております。



 樹齢は約200年と推定されますが、近くを流れていた玉川上水によって育てられてきたと考えられます。
 かつて渋谷区内には名のついた巨木、銘木が数多くありましたが、都市化と戦災によって枯れてしまい、初代のものはこの箒銀杏だけとなってしまいました。
 この木にちなむ特別の伝説は伝えられておりませんが、根本にある天満宮の小祠から、この近くを流れていた玉川上水に架けられた橋を天神橋と名付けました。
 渋谷区教育委員会

 
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所在地 渋谷区代々木3-29先

  玉川上水跡
 ここには、かつて神田上水とともに江戸の二大上水と呼ばれた玉川上水が流れていました。現在は暗渠となり、当時の面影を偲ぶことはできませんが、各所に残る橋の欄干は玉川上水の名残です。
 江戸時代初期、江戸の住民は神田上水赤坂溜池の水を飲料水として利用していましたが、江戸市中の発展につれ水不足をきたしました。そこで、承応元年(1652)に玉川上水開設の計画が立てられたのです。承応2年(1653)正月、幕府は庄右衛門・清右衛門兄弟に工事請負を命じました。ここに老中松平伊豆守信綱を惣奉行とする、玉川上水開設の計画はスタートしたのです。信綱の巨安松金右衛門の設計に従い、多摩郡羽村に堰を設けて取水口とし、四谷大木戸まで約43キロの開削水路を通し、そこから先は地価に配管(石樋・木樋)を敷設するという、当時としては非常に画期的な工法がとられました。
 このほかに玉川上水は、江戸市民の飲料水供給にとどまらず、灌漑用水や新田開発など武蔵野台地の発展にも計り知れない恩恵を授けたのです。
 渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区代々木4-25-10

刀剣博物館の開館時間・展示物の確認は
     → 刀剣博物館のホームページ



 刀剣博物館前には『赤羽刀記念碑』、『無名刀匠之碑』、『薫山 本間順治先生胸像』、『寒山 佐藤貫一先生胸像』、『「日刀保たたら」による鉧』があります。


所在地 渋谷区代々木4-25-10  (刀剣博物館)

 「日刀保たたら」による鉧けら

「選定保存技術」とは文化財保護法第83条7によって規定されている文化財保存技術のことをいう。我が国には重要無形文化財という技術とその保持者(いわゆる人間国宝)が各分野で認定されている。しかしこの重要無形文化財はそれを様々な方面から援助し、そして支えていく技術がなければその真価を発揮することはできない。その技術として「選定保存技術」制度が、昭和50年(1975)に発足した。平成22年(2010)現在で、29団体がその技術の保存団体として認定を受け、その技術保持者として52人が認定されている。財団法人日本美術刀剣保存協会が運営する「日刀保たたら」も、この認定を受け、毎年冬季に操業を行い、ここに展示してある鉧を産出する。
 この鉧は古来からの方法をほぼ完全なまま踏襲した工程を経て生産された。原料として、山陰から産出される「真砂」とよばれる良好な砂鉄を約10トン、そしてたたら製鉄用に生産された「たたら炭」約12トンを三昼夜燃焼させ、平均2.5トンの重さを持つ鉧が毎回の操業で生産される。この鉧は昭和57年(1982)度の操業で産出されたもので、鉧の姿形としては理想的な部類に入るといってよい。
 毎年の操業終了後、鉧は大銅、小銅という道具で拳大ほどの大きさになるまで破砕されたあと、全国の刀匠へと供給され、貴重な日本刀製作技術の保存伝承に日々貢献している。



      Selected Conservation Techniques by the National Government and Nittoho Tatara.
Nittoho Tatara is a large traditional furnace for producing iron and steel. It is operated by the Society for the Preservation of Japanese Art Swords.
Tatara is operated every winter. This large block of iron and steel (Kera) display was manufactured in 1982. This project is designated as a Selected Conservation Techniques. The system of designating Selected Conservation Techniques was established through an amendment to the Law for the Protection of Cultural Properties in 1975. This system was established for the purpose of supporting important intangible cultural assets.29 groups and 52 people are recognized as Selected Conservatiion Techniques as of 2010.
This Kera weighs at about 2.5t. It was manufactured from 10t iron sand and 12t charcoal in the old traditional way. It taked 3 consecutive days and nights for this technique. The iron sand called "Masa" is carried from the San-in area and the charcoal called "Tatara zumi" is spesially produced for Tatara. After cooling down,the Kera is broken into small pieces and selected by quality.
Japanese swords are made from these pieces of steel and iron.
The Tatara project contributes to conservation of Japanese sword making techniques.


所在地 渋谷区代々木4-25-10  (刀剣博物館)

  寒山 佐藤貫一先生胸像
 明治40年(1907)鶴岡市大海町に生まれ、小学時代から頑健な体格に恵まれて硬骨の少年だった。
 大正9年(1920)国学院大学大学予科に入学し、刀剣に関する鑑識も高く、同じ従兄の本間順治(号薫山)氏も既に国学院大学に在籍中であり、しばしば刀剣の会を催した。また、国学院大学剣道部主将としてその名声は高かった。
 昭和23年(1948)教員を辞し東京国立博物館刀剣室に勤務し、刀剣研究専一の途を進む。敗戦による武器処理という日本刀の最大危機にあたって、これを保存するため、財団法人日本美術刀剣保存協会を有志と共に設立し、GHQ・法務局・警視庁と連日陳情を続け、遂に日本刀を美術品として所有することを認めさせた功績は偉大と言わねばならない。
 博物館に奉職したことは専門以外の美術の分野にもよりいっそうしたしむこととなり絵画、書、陶器等その鑑識は一段と冴えを見せるとともに子弟の育成にもその情熱いやましてゆく。
 昭和40年(1965)、刀工・研磨・鞘・白金・金工・漆工・外装等の技術の保存、育成を目的に作刀技術発表会の制度を設け、後に新作名刀展へと移行し現在に至っている。
 昭和43年(1968)、全国愛刀家の念願であった刀剣博物館を自ら東奔西走し国庫補助を請願、広く募金活動を続け、遂にその努力が実り当地に竣成を見たのである。
 昭和44年(1969)停年退官、財団法人日本美術刀剣保存協会専務理事、刀剣博物館副館長として専念することとなり、刀剣界発展のため寸暇を惜しんで次の大事業であるたたら製鉄の復活に心血を注がれ見事に責務を果されたが、日頃の激務がもとで健康を損われ、たたらの火入式を見とどけながら昭和53年(1978)2月26日遂に帰らぬ人となった。
 日本刀を愛し、人を愛し、又、多くの人から愛され慕われた刀剣界の偉大な師、佐藤寒山先生の遺徳を偲び、その業績を讃え爰に像を建立するものである。
 昭和35年(1960)  「御紋康縫」の研究論文により文学博士授与
 昭和52年(1977)4月 勲三等瑞宝章授与
 昭和53年(1978)2月 逝去、従四位贈位(山形県鶴岡市禅源寺埋葬)
  財団法人日本美術刀剣保存協会



Kanichi 'Kanzan' Sato

kanichi Sato was born in Taikai-cho,Tsuruoka-shi,Yamagata-prefecture in 1908.
In 1925,he entered kokugakuin University,where his cousin,junji 'kunzan' Honma,was also a student.
Whilis at university,they held many japanese swords study groups together.

In 1948,kanzan Sato began to work at Tokyo Natinal Museum in the japanese swords department.Following japans defeat in the second World War,the allied occupational forces issued an order that all Japanese swords were to be confiscated. Kanzan Sato,along with kunzan Honma and a group of volunteers,petitioned the allied forces General Head Quarters(GHQ) requesting that the Japanese people be allowed the possession of japanese swords as art objects. Finally,the Metropolitan Police Department and Ministry of justice received permission from GHQ toallow the Japanese people to keep their swords.

In 1965, Sato co-founded the annual Japanese swords competition - the aim of which was to preserve and foster the traditional skills of swordsmiths and related craftsmen (polishers,scabbard makers,habaki markers,lacquerers and decorative sword fitting makers). In 1968,the Japanese Sword,Museum was opened under the patronage of the Japanese govermment,and Sato was at the forefront of this endeavour.

Kanzan Sato retired from tokyo national Museum in 1969. He was appointed as managing director of the Society for the preservation of Japanese Art Swords, and as deputy director of the sword museum. From that time onwards,he devoted himself to the revival of traditional Japanese iron manufacture,known as tatara. Just after attending the initial firing ceremony of the newly restored Nittoho Tatara,Sato was hospitalize. He died at the age of 70 on February 26th 1978.


所在地 渋谷区代々木4-25-10  (刀剣博物館)

  薫山 本間順治先生胸像
 薫山本間順治先生は山形県酒田市の名家に生まれ若くして日本刀の研究に志して刀剣学を樹立し文学博士の称号を得られた。その間1945年太平洋戦争の敗戦に際し、進駐軍は日本刀の統べてを武器として没収しようとしたが、先生は敢然これの美術面を強調して遂に彼等を説得し、為にわが民族が完成した世界に誇る鉄の文化財日本刀は永久に保存されることとなった。その功績は刀剣史上寔に比類がない。先生は又終戦後の混乱した刀剣界の再興を図り首唱して財団法人日本美術刀剣保存協会を創立せられたが、これが刀剣会の今日の未曾有の盛況を見る源泉となったことは周知のとおりである。
 今年先生が古希の寿を迎えられるに当たり、先生の弥栄と万才の寿を祈って先生の胸像建立の議が全国愛刀家の間に沛然として起こるに至った。よって建立の地をかつて先生が同志と心血を傾倒して建設された刀剣博物館の玄関に選び、像の制作は愛息本間薫山紀男君に委嘱、ここに永く先生の徳を景仰することとなった。
 1974年夏日 全国愛刀家有志一同
昭和26年(1951)  文学博士授与
昭和49年(1974)  勲三等旭日中緩章授与
平成3年(1991)8月29日 逝去(駒込吉祥寺埋葬)



     Junji "Kunzan" Honma
Junji "Kunzan" honma was born of an eminent Japanese family in Sakata city of Yamagata prefebture. He went on to earn a doctorate in literature, and his dessertation on Japanese swords set the standard by which they are studeied today.

One of his most admirable contributions to Japanese sword preserbation was successfully petitioning  the Allied Forces to cease  the confiscation of swords from the Japanese people. In 1945,following Japan's defeat in the Second World War,Japan was occupeid by the Allied Forces. One of the occupational farce's policies was to confiscate all weapons (including Japanese swords). However,Kunzan Honma and Kanzan Sato protested to the Allied Forces General Head Quartes (GHQ) that Japanese swords were not merely weapons,but valuable are objects of excellent quality. As a result of their efforts,GHQ rescinded the order,allowing the Japanese people to retain possession of their prized swords. Through Kunzan and Kanzan's labors,many Japanese swords were saved from seizura,destruction,or removal from Japan. He led to the founding of the Society for the Preservation of Japanese Art Swords(NBTHK).


所在地 渋谷区代々木4-25-10  (刀剣博物館)

  赤羽刀記念碑

  赤羽刀処理の終結
 記念碑に示された未処理の赤羽刀4576本については、旧所有者に7本が正式返還され、国が直接に公開・活用をはかるための60本及び似銘や美術刀剣類として再生不可能なものなどは総て国が保管し、残る3209本については全国の都道府県教育委員会を通じて申請のあった191の公立の博物館・美術館等に譲与して公開・活用に供されることとなった。そして接収刀剣類処理検討会議専門部会によって当該刀匠の故郷に譲与することを主とする厳正且つ公平な配分案が作成され、文化庁により平成11年(1999)12月21日を以て引渡しが完了し、我が国が世界に誇る国民的文化遺産である数奇な運命を辿った赤羽刀が戦後50有余年を経て、見事甦りその処理を終えるに至った。
 平成12年(2000)3月1日 財団法人日本美術刀剣保存協会

            DEDICATION
 After the end of the World War Ⅱ,Japanese swards of a considerable number were confiscated as dangerous weapons by the order of the Occupation Forcs of Allied Powers. The policy was later amended at the repeated petition of Japanese sword lobers and auathorities,but the situation was little improved,since examining of art swords was still carried on by the Occupation Forces. Colonel C.V. Cadwell,who was in charge of the 8th Army Provost Marshal,was most concerned with the loss of the swords of artisitec and historic value,and at his recommendation,there was organized the official Japanese Sword Appraisal Committee,through the activities of which most of the masterpieses of Japanese swords came to be duly protected.
 The name of Colonel C.V. Cadwell should forever be remembered as the sabiour of Japanese art swords.
 Junji Honma  October,1973



    赤羽刀始末記
 「赤羽刀」の由来は大東亜戦争の終結により占領軍によって接収された刀剣類の内、海中投棄や焼却・寸断処理等をのがれて残されたものが当時赤羽の米第8軍兵器補給廠(旧陸軍倉庫)に集められたことからの通称となった。昭和22年(1947)に内務大臣より20名の審査員が任命され、現物審査にあたられたが山積された状態で惨憺たる有様であった刀剣を長期にわたり選別作業され所有者が判明した908本は昭和23年(1948)から返却され、残された4576振りが本■に■められ東京国立博物館地価倉庫に搬入保管されてきた。~


所在地 渋谷区代々木4-25-10  (刀剣博物館)

  無名刀匠之碑
 市井の刀剣研究家である三田光剣氏は幼少の頃より刀に魅せられ、独学で研究一筋の道を歩まれ、昭和36年(1961)、刀剣趣味の不朽と後進の指導育成を思いたち「古歴刀保存会」を設立し、多くの愛刀家を世に送る傍ら当時の刀剣界の風潮は古名刀や著名刀のみが持囃される反面、無名刀工の作は全くといってよいほどに埒外におかれていることを憂い、身延山増田日遠大僧正に、揮毫を依頼、自費で自宅玄関傍に「無名刀匠の碑」を建立し自らの心の慰めとされていた。
 一方「古歴刀保存会」は設立以来33年を経過し、初期の目的を達したとして昨年解散し、その後は只管「碑」の御供養に専念されておられたが、高齢のためこの先の保守が困難であることから教会がお預りし、同氏に代って御供養させていただくこととした次第である。
 平成7年(1995)正月 
 財団法人日本美術刀剣保存協会 会長山中貞則


所在地 渋谷区代々木3-23-3

 天満宮は『箒銀杏』の根元にあります。


所在地 渋谷区代々木3-27-5

浄土真宗東本願寺派
 柴山 安養院 正春寺 
 

本尊 阿弥陀如来
開基 正春院釈尼清安
開山 秀教坊正入(俗姓は土井甚三郎昌興、徳川氏の直参。関ヶ原の戦い後に出家す)
創立 慶長19年(1614)4月湯嶋南ヶ丘(現在の文京区湯嶋3丁目)に建立。専西寺と号す(当初は天台宗)

元和6年(1620) 正入の祖母である初台局が賜った知行所代々木の地に専西寺を建立。正入は湯嶋と代々木の二ヶ寺を兼務。

寛永元年(1624) 浄土真宗に改宗。

天和3年(1683) 湯嶋専西寺類焼のため同地を引き払いすべて代々木の専西寺へ引き移す。

元禄5年(1692) 正春院(梅園局)の由縁を追思し寺号を正春院と改む。


 正春院ゆかりの人々

 土井利勝
三河国刈屋城主、水野信元の子。家康公の命により2歳で土井利昌の養子となる。将軍秀忠、家光に仕え大老となる。下総国古河十六万石の藩主となる。

 初台局
大河内正頼の妹で土井昌勝の妻となる。2代将軍秀忠の乳母となり初台局と称す。その功により、天正19年(1591)代々木村に乳母料として二百石の知行地を賜る。よって初台の地名今に残る。
法名は安養院釈尼香薫

 梅園局
初台局の娘。3代将軍家光の乳母。木村吉次を婿としたが将軍秀忠の命により、土井を改め柴山と改姓した。
開山正入の母。法名は正春院釈尼清安

 平成2年(1990)庚午12月


所在地 渋谷区代々木4

  切通坂(切通しの坂)
 
 画家岸田劉生は、大正3年(1914)から大正5年(1916)にかけて代々木山谷に住んでいたので、このあたりを描写した作品がたくさんあります。そのうちの1点に名作「道路と土手と塀(切通之写生)」(重要文化財)があり、この前の坂を描いたものです。 
 平成23年(2011)度 渋谷区教育委員会



 


所在地 渋谷区代々木3-26-1

真宗大谷派
 聖徳山 諦聴寺
たいちょうじ



 諦聴寺境内には『茶室花雲』、『木造聖徳太子立像(孝養像)』があります。

 

所在地 渋谷区代々木3-26-1 (諦聴寺)

渋谷区指定有形文化財
 茶室花雲ちゃしつかうん
     平成22年(2010)10月7日指定

 花雲は昭和3年(1928)に上野公園で開催された大礼記念国産振興東京博覧会のためにつくられた茶室と伝わり、数奇屋師・木村清兵衛(3代目)の作といわれています。その扁額は、近代の茶の湯文化を牽引した益田孝(鈍翁)の揮毫によります。
 茶室の構成は、三畳台目・下座床で、にじり口と貴人口が併設され、水屋と腰掛待合は一棟にまとめられています。意匠的に大きな特徴は、大阪府に所在する水無瀬神宮燈心亭(重要文化財)を「本歌」とした「写し」であるということです。材料の仕上や組み合わせ、天井と屋根の構成などに数奇屋師・木村清兵衛の作風も認められます。茶室を構成する材料は、吟味された銘木・銘竹などであり、いずれも希少で良質な材が使われています。
 本茶室は三度の移築を受け、そのため造営当初の経緯は伝承の域をでません。しかし、近代の茶の湯文化の興隆において中心的役割を担った益田鈍翁と、著名な数奇屋師・木村清兵衛の関わりは確かです。花雲は、数奇者と数奇屋師が協同し、歴史的な名席を独自に解釈しつつ新たな茶室を作り出すという、近代における和風建築の天海を物語る上でも貴重な茶室であります。
 渋谷区教育委員会

所在地 渋谷区代々木3-26-1 (諦聴寺)

渋谷区指定有形文化財
 木造聖徳太子立像(孝養像こうようぞう
     平成20年(2008)2月28日指定

 この像は、頭髪を中央で左右に振り分け、顔のつくりも明らかにしない立ちすがたで神像を思わせますが、当初は両耳辺で髪を美豆良に結い、いま見るように柄香炉を手にしていたと考えられます。風化による木のやつれが全身に見られ、両手先や香炉のほか台座も近世のものに替わっており、保存状態が良好とはいえませんが、聖徳太子の16歳の姿を表したという孝養像にあたります。
 木彫による太子孝養像は、鎌倉時代以降各地で盛んに造立され、なかには坐像や倚像もありますが、本像のような直立像が一般的です。そのすがたは、太子が父用明天皇の病気平癒を祈るものとされますが、中世になると浄土真宗の太子信仰と結びつき、彫像や絵像が多く作られます。本像はヒノキの一木造で、簡素な彫法から南北朝時代から室町時代にかかる頃に造られたとみられます。
 諦聴寺が四ッ谷から現在地に移転するのは嘉永3年(1850)ですが、太子像はそれ以前から伝えられていたといいます。本像は、区内の真言宗寺院に伝わる聖徳太子孝養像の稀少な作例であり、彫刻史のみならう信仰史の上からも貴重な作です。
 渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区代々木4-23-13

法華宗本門流
 白蓮山 立正寺

 当地は土佐二十三石の大名山之内一豊公元江戸下屋敷にて歴史の薫りと時空を越えた生命の永遠性を湧きいたしています



 
 代々木七福尊神奉安
 法華経本門上行体内より湧出され、当山に勧請の七福尊神は常に正しい教えの中に健康と長寿、現世安穏、心願成就をお守り下さっています。

                  
                                                 浄行菩薩


 


所在地 渋谷区代々木5-65

 「春の小川」歌碑
 ここはかつて清らかな小川が流れ、黄色のかわいらしい”こうほね”が咲いていたので、河骨(こうほね)川と呼ばれていました。春になると、岸辺にはれんげやすみれが咲く、のどかな所でした。
 明治42年(1909)から代々木山谷(現代々木3丁目3号)に住んでいた国文学者の高野辰之氏は、このたりの風景を愛して、しばしばこのほとりを散策したといわれてます。そして、今も歌い続けられている『春の小川』を作詩して、大正元年(1912)に発表しました。この詩は、小学唱歌となり、現在に至るまで広く愛唱されています。
 現在、河骨川は暗渠となり、もはや当時のおもかげはありませんが、この詩から明治末ごろの付近の様子を知ることができます。ここにある歌碑は、このことを永く後世に伝えるために、地元の篤志家が建設し、渋谷区に寄贈されたものであります。
 渋谷区教育委員会









所在地 渋谷区代々木5-1-1

 代々木八幡宮
 御祭神
主座   八幡宮(應神天皇)
配座   天祖社(天照大神)
      白山社(白山媛神)
別宮   稲荷社(豊受大神)
      榛名社(日本武尊)
      天神社(菅原道真公)
末社   稲荷社(出世稲荷大明神)
 例祭日
宵宮祭  9月22日
例大祭  9月23日
 御由緒
 当社は鎌倉時代の初め、建暦2年(1212)9月23日に、鎌倉幕府第2代将軍源頼家公にかかわる遺臣荒井外記智明によって創建された。
 智明は、頼家公が伊豆の修善寺で非業の最期を遂げられてからこの代々木の地に隠棲され、名も宗祐と改めて、日夜亡き主君らの冥福を祈っていたが、ある夜夢の中に故郷鎌倉の八幡宮から宝珠のごとき鏡を感得された。
 これによって小祠を営み、八幡宮を勧請されたのがはじまりである。

















 代々木八幡宮には『代々木八幡遺跡』、『威徳大業碑』、『八幡宮紀念の碑』、『菅公一千年 歌碑』、『絵馬「代々木八幡縁起絵」』、『絵馬 伝「神功皇后之図」』、『訣別の碑』、『臼田亜浪の句碑』、『代々木八幡宮神輿』、『出世稲荷社』、『稲荷社・天神社・榛名社』、『「代々木囃子」説明版』、『「代々木もちつき唄」説明版』があります。

 

所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮)

 「代々木もちつき唄」説明版
  区指定無形民族文化財 平成18年(2006)3月9日
 代々木の餅つきは、現渋谷区の初台、代々木、西原、上原一帯で、農家が、5、6軒を一単位として共同で行われていました。歳末の早朝から一単位あたり2時間ぐらいでつきあげ、夕刻までかかったといいます。「もちつき唄」は、餅をつく前段のこねる作業の時に唄われていましが。しかし、昭和30年(1955)を過ぎる頃から、農家の現象や農地の宅地化、商店からの餅の購入等の理由で、次第に行われなくなりました。その餅つきや「もちつき唄」が忘れられてしまうのを惜しんだ有志が集まり、昭和43年(1968)に「代々木もちつき唄保存会」を結成しました。毎年、代々木八幡宮において行われる節分会では、参詣者に餅が配られますが、その餅をついているのが「代々木もちつき唄保存会」です。
(一)目出たな 目出たな目出たの 若松さまよ
   枝も栄えて 葉も茂る
(二)庭にゃな 庭にゃ鶴亀 五葉の松
   松の下にゃ おじじとおばば
(三)お前な お前な 百まで
   わしゃ 九十九まで
   共に 白髪の 生えるまで
 渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮)

 「代々木囃子」説明版
 代々木囃子は、江戸末期に代々木八幡宮の中で行なわれていた「目黒流囃子」を、時の神官が地域の農民に教えたことに始まるといいます。現在、保存絵が使用している囃子鉦に「天保2年(1831)辛卯二月 代々木若」という記銘があり、言い伝えは信憑性が高いと思われます。その後、明治・大正期と盛んに行われましたが、関東大震災の時に一時中断しました。総和に入っても継続されますが、第二次世界大戦が始まってからは低迷し、ついに中断を余儀なくされてしまいました。戦後、氏子らが先頭に立って復興させ、昭和21年(1946)に「代々木囃子保存会」を結成し、その保存活動を続け、現在に至っています。
 「代々木囃子保存会」は、代々木八幡宮の祭礼を中心に活動を続けています。2月の初午祭、5月の五社宮祭、9月の例大祭に町内を廻り、最後は神社の奉納します。このほか、正月には保存会の会員や依頼のあった家などの門口で獅子舞と一緒に演奏して廻り、最後は代々木八幡宮に奉納しています。
 渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮)

 威徳大業碑
寺田社は建暦2年(1212)の創祀暦算して本年760歳且又寛文11年(1671)中興治山この地に移りしより参百春秋加ふるに現存本殿の造立は明治5年(1872)それより實に壹百星霜奇しき神縁と謂ふへし依て深く期する所あり 曩に社有地処分によりて得たる代償を以て多年の懸案たりし覆殿造営並に廻廊社務所等の建築に附して社殿神域内外の改修を以て記念の挙となさんとす 茲に敬神諸家協賛関係各位の盡■その至誠凝り聚るところ其工期■餘に亘り其資辨壹億を超えたり斯くて所期■■の大要を成就し■りぬ
噫乎神■深遠民心亦壮なるかな 敬白
 昭和46年(1971)9月吉日




所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮)

 稲荷社・天神社・榛名社
  稲荷社(御祭神・・・豊受大神)
  天神社(御祭神・・・菅原道真公)
  榛名社(御祭神・・・日本武尊)
  祭礼日・・・五社宮祭 5月23日
 稲荷社と天神社については、江戸時代、大和国岩掛城主・山田政秀の第六女、紀州家側室延寿院殿が守護神として祀っていたものが奉祀されたと伝えられている。その後、明治33年(1900)、神社合併政策により、山谷301番地(現在の参宮橋駅の西)にあった掘出し稲荷と、新町3番地(現在の文化学園の西)にあった銀杏天神社がそれぞれ合祀された。
 榛名社については、この地域で雨乞い豊作の祈願のために上州の榛名山まで参詣するという習慣があったことから、おそらく各村や家に祀られていた榛名社が、やがて氏神様である八幡宮の境内に移されたものと思われる。
 また、本田の八幡宮の相殿としてやはり明治33年(1900)、山谷365番地(現在の代々木公園駐車場あたり)にあった天祖社と、同じく山谷139番地(現在の南新宿駅の北)にあった白山社が合祀された。このため稲荷・天神・榛名社と両社を合わせて祭礼を五社宮祭と称することになった。



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