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東京都渋谷区の歴史
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所在地 渋谷区恵比寿 - 渋谷区恵比寿南

 アメリカ橋は、明治15年(1926年)に架設されましたが、当時の橋は、明治37年(1904年)に開催されたセントルイス万博(アメリカ)に出展された橋を架設した事から、この橋が「アメリカ橋」と呼ばれるようになりました。

 現在の橋は、二代目ですが、平成18年(2006年)の改修にあたり、安全性の向上を図ると共に周囲の景観に配慮し、街路樹については、世界的に著名な照明デザイナーの石井幹子さんによってデザインされました。

 この改修は、景観の向上について東京恵比寿ロータリークラブより提言と協力をいただき、渋谷区が計画をしたものです。

 渋谷区では、歌の題材としても皆様に親しまれているこのアメリカ橋を今後とも大切にしていきます。



<歌のデータ>

昭和54年(1979年)のヒット曲 「アメリカ橋」
  歌 狩人    作詞 奥山侊伸    作曲 信楽順三

平成10年(1998年)のヒット曲 「アメリカ橋」
  歌 山川豊    作詞 山口洋子    作曲 平尾昌晃


平成18年(2006年)9月 渋谷区
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所在地 渋谷区恵比寿1-22

  山下伏見稲荷神社
 そもそもこの山下伏見稲荷大明神は、明治20年(1887)当時まだ田畑山林の広がっていたこの地に、五穀豊穣の守護神として村民の信仰の拠りどころとなったものであります。
 その後、星移り物変りいっとはなしに田畑山林は商店街となり、その間数度に渉る近火にも類焼を蒙ることなく、商売繁昌の大明神として、その縁日にはゆかりの商人の出店も数百に及び繁昌を極めたものであります。



 その後、昭和20年(1945)5月24日の東京空襲で戦災に遭いましたが、昭和21年(1946)7月信仰心の厚い氏子多数、特に故長島国治氏の御厚志により、この地に再建造営されました。さらにその後30年を経て、その間の熱心な信者のお守りにも拘らず社殿の腐食甚だしく、本年多くの信者の方々の御奉納によりここに新たに改築を見た次第であります。
 昭和51年(1976)3月 山下伏見稲荷講

 


所在地 渋谷区恵比寿2-32

  豊沢貝塚
 縄文時代を年代区分すると、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期にわけられます。
 渋谷区内の遺跡の多くは、このうち中期に属するものであり、晩期の遺跡はこのあたりだけから発見されています。
 この一帯は、渋谷区内でも最も低い台地で、遺跡はその斜面にあります。
 この地域には、貝塚のほかに泥炭層があることも知られており、そこから後期の加曽利B式、安行Ⅱ式と晩期の安行Ⅲ式、亀ヶ岡式の土器片や石器などが発見されました。
 都市開発が早くから行われてきた渋谷区内では、すでに大部分の遺跡が失われてしまったので、この遺跡は大変貴重な存在になっています。
 渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区恵比寿3-35

  岡田三郎助終焉の地
 岡田三郎助は明治2年(1869)に佐賀藩に生まれ、明治41年頃、ここに移り住みました。画風は黒田清輝の「天真道場」の影響をうけ、「北国の五月頃」をはじめ数多くの名作を描き続けましたが、昭和14年(1939)71歳で亡くなりました。
 平成8年(1996)度 渋谷区居行く委員会

 


所在地 渋谷区恵比寿4-15-1 (恵比寿クレセントSAKI)

  中田喜直住居跡
 作曲家中田喜直は、大正12年(1923)8月1日、渋谷町字欠塚(現恵比寿4丁目)に誕生し、加計塚小学校に入学しました。代表作に「夏の思い出」「めだかの学校」「かわいいかくれんぼ」「ちいさい秋みつけた」「雪の降る街を」などがあり、日本人の心に刻まれた名曲は、誰もが一度は口ずさんだことがある童謡です。中田家は音楽一家で、父の章は日本ではじめてパイプ・オルガンを演奏し、「早春賦」を作曲したことで有名です。
 平成21年(2009)度 渋谷区教育委員会

 


所在地 渋谷区恵比寿4-16

  渋谷区立景丘ちいさい秋公園

 


所在地 渋谷区恵比寿4-21 (区立加計塚小学校)

  欠塚の碑
 昔、この付近一帯に小円墳群がありその一つが欫けていたことから、このあたりを欫塚と呼ばれたと伝えられる。
 欫塚の名は江戸初期、下渋谷村小学欫塚として存在した。(新篇武蔵風土寄稿による)
 本校創立にあたり、時の渋谷町長佐々木基氏、初代校長野口周作氏が合議の上この史実から校名を、東京府豊多摩郡加計塚尋常小学校と決定したものである。
 石碑「欫塚」は、本校創設の際西側敷地内にあったものが、伊達町四十九番地先に移され、後、昭和22年(1947)夏この地に当時の職員が安置したものである。作者年代等不詳である。
 昭和54年(1979)11月10日 加計塚小学校旧職員有志


所在地 渋谷区恵比寿1-18-1

曹洞宗
 寿陽山 台雲寺

  

 台雲寺境内には『敵・味方軍人の供養碑』、『歌川国宗墓』、『軍馬の碑』、『子育地蔵尊』があります。


所在地 渋谷区恵比寿1-18-1 (台雲寺)

  歌川国宗墓
 浮世絵師歌川国宗は本名を山下松五郎といい、初代豊国の門下で、長文斉、杉嶺と号し、文政年間に作品を出しましたが安政4年(1857)に没しました。
 東京都渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区恵比寿1-18-1 (台雲寺)

  軍馬の碑
 日清戦役に従軍して犠牲となった軍馬をあわれみ、

  みいくさを のするのみかは かてをさへ
   はこぶも馬の ちからなりけり


 という歌を刻んだ珍しい碑です。
 東京都渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区恵比寿1-18-1 (台雲寺)

  子育地蔵尊

建設年月日     昭和16年(1941)4月4日

建設者 渋谷区恵比寿4丁目10-2番地(旧景丘町33番地)
 父 柴田寅蔵(当年82才)
 母 故柴田登美(昭和53年〔1978〕8月17日 亡くなる78才)



 昭和5年(1930)9月25日次女美代子が(5才)で亡くなり、昭和15年(1940)12月4日四男登久光を(5才)で亡くし両親は冥福を祈るため旧青山1丁目石勝石材店の日本一の石工(帝展入選者)の加工を受け子育地蔵尊と名付け末永く供養をいたし、世の中の子供が育つようにと建設する。

 昭和16年(1941)4月4日開眼式を行う。
 当時は戦時中にて物資の統制を受けていたが、父親は陸軍の御用商人であったので、特別な配給を受け約400名の来賓を迎え旧台雲寺本堂にピアノを持ち込み日頃故登久光がすきであった(荒城の月)を勅選教授平井美奈子先生に歌ってもらい、つづいて父親がつくった歌「ああ登久光やなぜ死んだ」を歌ひつつ父親がピアノをひき供養を致しました。
 昭和54年(1979)1月
 子育て地蔵尊建設者 柴田寅蔵


所在地 渋谷区恵比寿1-18-1 (台雲寺)

  敵・味方軍人の供養碑

 明治27年(1894)、明治28年(1895)の日清戦役に従軍し、戦没した日本軍人の慰霊碑とともに、相手側の清国軍人の霊を弔った碑が明治30年(1897)にたてられてて、当時の人日との博愛精神を知ることができます
 東京都渋谷区教育委員会


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