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東京都渋谷区の歴史
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所在地 渋谷区渋谷2-24 (東横のれん街)

 平和の訪れと共に、伝統への憧れが人々の心によみがえりきたることに応えのれんの味を守り続けきしもの相集い東横百貨店の理解と協力のもと 昭和26年(1951)10月27日 この地に「東横のれん街」を開店せり
 世界に比類なき この老舗食品専門店集団による商法は 忽ち日本国中に大きな反響を呼び 同様のもの各地に続出
 将に 戦後の商業史上に一大紙面を画するものとなる
 依って茲に「東横のれん街」誕生50年に当たり碑を設けこの地を「のれん街発祥の地」と明記するものなり
      平成13年(2001)10月27日
        東横のれん街 第5代会長 細田安兵衛 記

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所在地 渋谷区渋谷2-24

  モヤイ像
 新島には古くから『モヤイ』と呼ぶ美しい習慣があった。それは島民が力を合わせる時にのみ使われた。いわば共同の意識から生まれた素朴な人々のやさしい心根を表すものであった。
 『モヤイ』は島の歴史とロマンを秘めた言葉なのである。
 ここに集う人々よ、ものいわぬモヤイ像は、あなた方に何を語りかけるであろうか。
 願わくば私たちと共に、そのかすかなる祖先の『モヤイ』合う連帯の心に胸を大きく開かれんことを。
  昭和55年(1980)9月25日 東京都新島



所在地 渋谷区渋谷3-4-7

 豊栄稲荷神社は渋谷八幡宮を創建せる河崎土佐守墓家の曽孫渋谷高重の創祀と伝へらる 鎌倉時代の頃といふ 元渋谷川の辺 渋谷駅の近く(並木町31番地公設市場と渋谷川の間)に在り 渋谷川が渋谷城の壕に利用せられ居りしことより江戸時代文化の頃まで堀の外稲荷と称せられしが何時の頃よりか「田中稲荷」と称せられ又「川端稲荷」とも称せらる 昭和31年(1956)道玄坂上(上通り4丁目34番地)に在りし豊澤稲荷神社を合祀す 豊澤稲荷神社は元猿楽町辺に当る京極家の下屋敷内に祀られしを明治初年(1868)道玄坂上に移し更に中豊澤辺の数多の稲荷祠を合祀せりと言ふ 東京都の区画整理事業の施行に伴ひ昭和36年(1961)現在地に移り豊栄神社と称し奉る



 昭和47年(1972)新社殿を造営し昭和50年(1975)研修道場を新築して蔵修館と名付く 文武の道に励み大御心を戴きて睦び 和らぎ誠心
 以て世の為人の為に奉仕し 敬神崇祖 四海同胞 自然と共に生き 宇宙の働きも似た日本人の生活 美しき日本の心の継承と発展を祈念してなり
 家内安全、家運隆昌、子孫繁栄、開運厄除など日々の生活人生の守り神 生成発展産霊の神として古より御神徳高く霊験灼かなりといふ
 例大祭は10月13日なり
天皇陛下の御歌
 我が庭の宮居に祭る神々に世の平らぎを祈る朝々
皇后陛下御歌
 星かげのかがやく空の朝まだき君はいでます歳且祭に

皇紀2635年 昭和50年(1975)8月23日 建之



 境内には『庚申塔群』、『庚申塔略記碑』があります。


所在地 渋谷区渋谷3-4-7 (豊栄稲荷神社) 

  庚申塔群
 庚申信仰は江戸時代に庶民の娯楽を兼ねて流行し、それによって各地に庚申塔が建てられました。
 ここには13基の庚申塔が集められていますが、像容はまちまちです。
 一般的に見られる六臂の青面金剛像だけのもの、その下部に天邪鬼や三猿を配したもの、三猿のみのもの、及び「為庚申供養」と文字だけを刻んだものなどがみられます。これらは町や村の辻に建てられたこともあって、右から7番目の塔には「めぐろ・こんわう道」と刻まれていて、道しるべを兼ねていました。また、すべての塔の下部に建立者の名前が刻まれていますが、右から3番目のものには渋谷伝左衛門以下同姓の名が見え、旧領主渋谷氏との関連があるかどうか興味がもたれます。
 庚申信仰の内容については、境内の「庚申塔略記」をお読みになって下さい。
  渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区渋谷3-4-7 (豊栄稲荷神社)

  庚申塔略記碑
ここに建てられている庚申塔は江戸時代、中渋谷村、中豊沢村、宮益町など金王八幡神社を中心とする地域に住んでいた人々が建てたものです。そのころ人々は大変盛んであった庚申、信仰を受け入れ、近隣相集い講を結んで61日目毎に廻ってくる庚申の日に、勤行飲食談笑しばし日ごろの労苦を忘れて一夜をすごすのが娯楽の少ない当時としては無上の楽しみでありました。これを庚申待といいます。庚申信仰の功徳作法などを述べた庚申縁起という本に三年一座即ち一年に六度三年で十八度の庚申待を終ったならば平素よりも御盛物などをたくさんあげて塚を築き塔を建てて盛大に供養するようにと書いてあります。この辺の講中の人々も恐らくその教えに従ってこれらの塔を建てたものと思います。
年代は延宝2年(1672)から元文4年(1739)までのものです。もとは、それぞれ村や町中に建てられていましたが都市化の早かった渋谷では明治末から大正時代にかけて渋谷川畔にあった田中稲荷の社殿の周囲に順次集められ戦災を蒙るまでそこにならべられていました。戦後区画整理の実施とともに、田中稲荷は金王八幡神社南側の地に移り豊栄稲荷と名を改め庚申塔は八幡神社の社殿横に移され今日に及びました。今回金王八幡神社鎮座八百八十周年記念の為社殿社地の整備に際し豊栄稲荷は崇敬会諸氏の御盡力で立派な社殿が再建され庚申塔も旧渋谷村民の歴史的文化遺産として手厚い保護のもとに次の世代に受継がなければならないと有馬康男、安藤善啓氏をはじめ多くの皆さん方の御努力で当社地に還りました。この昔の姿を語りかけてくれる貴重な遺物が立派に整備されたことは大変誉なことでこれからも大切に見守ってゆきたいものです。渋谷に生まれ庚申の研究者の一人として依頼されましたのでいささか略記させていただきました。
 昭和47年(1972)12月 庚申懇話会 横田甲一
 渋谷区道玄坂2-5-8   安藤善啓建之  西麻布 石久刻

所在地 渋谷区渋谷3-5-8 (東福寺) 

渋谷区指定有形文化財
 銅造菩薩立像
  (善光寺式阿弥陀如来脇侍)

     平成20年(2008)2月28日指定

 本像は、六方山型の宝冠をかぶり、胸前で両手を重ねるすがたから、いわゆる善光寺式阿弥陀如来の脇侍像にあたると考えられます。宝冠正面の標識が確認できませんので、左右脇侍のいずれにあたるかは不明です。信濃善行時の本尊阿弥陀三尊像に基づくという銅造阿弥陀如来像の一光三尊形式の流行は、鎌倉時代に入って高まりますが、本像はその一例証です。
 銅の鋳造で、鍍金は認められません。頭部から足先まで位置鋳製に見えますが、現状は補修の痕跡をとどめています。頭部には、火を被った痕が確認でき、その痕跡を残さない体部とは別に鋳造されたとみられます。頭部は宝冠のかたちや端正な顔立ちから、鎌倉時代後期の表現が観取でき、類例から13世紀後半の作とみられます。
 一方、撫で肩で細身の体部も、まとまりのある造形を示しており、南北朝時代を降らない作とみられます。鋳継ぎの際に頭部をやや上げ過ぎるかたちになったものの、全体の姿形は自然でつながりもよいものです。中世に遡る善光寺式阿弥陀如来の脇侍像が、区内に伝存する例はほかにありません。加えて本像は、通称「矢拾観音」として「江戸名所図会」等にも紹介されております。その霊像が本像であったという「寺社書上」(文政11年〔1828〕)の伝えもあり。本像が「矢拾観音」にあたると確定できませんが、その可能性も否定できず、今日まで信仰を集めています。
  渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区渋谷3-5-8 (東福寺) 

渋谷区指定有形文化財
 木造薬師如来坐像
     平成20年(2008)2月28日指定

 本像は、左手に薬壷を載せて坐る薬師如来像です。量感を控え薄身の上半身をやや丈高につくるすがたは、着衣の折り目も流麗で、平安時代後期に一世を風靡した定朝様の作風を示しています。ただし、角ばった顔や体部の表現に、やや強い彫法が見受けられますので、本像の制作は12世紀末から13世紀初め頃と推定されます。
 構造は針葉樹材を用いた寄木造で、目は彫眼とし、漆箔仕上げとします。像底に後補の板を貼るため、像内を確認できませんが、深く刳り上げられているとみられ、すべてが丹念に仕上げられている作といえます。なお、鼻や口に彫り直しとみられる部分や頭頂部の螺髪に欠けてなくなっている箇所も見られますが、総じて良好な保存状態です。
 本像の伝来については、詳らかにはしませんが、当寺の本尊には、江戸時代後期の阿弥陀三尊像が安置されているので、客仏として当寺に移されて来た時期があったと思われます。本像は、院政期の都の作風をうかがわせる、区内屈指の優作と認められます。
  渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区渋谷3-5-8 (東福寺)

渋谷区指定有形文化財
 東福寺の梵鐘
     昭和51年(1976)3月26日指定



 宝永元年(1704)の銘があるこの梵鐘には、金王八幡宮の縁起など渋谷の歴史が刻まれています。その一部に、
後冷泉帝のとき、渋谷の旧号谷盛の庄は親王院の地にして七郷に分る、渋谷郷はその一なり
 とみえるので、渋谷の旧地名を谷盛庄と呼んでいたことがわかるのです。なお、享保20年(1735)に版行された『江戸砂子』には、渋谷・代々木・赤坂・飯倉・麻布・一木・今井を谷盛七郷と呼ぶ、と書かれてあります。また、他の史料によると、上・中・下の渋谷三ヶ村と、上・中・下の豊沢三ヶ村に隠田を加えた七ヶ村を渋谷郷と称したといいます。
  渋谷区教育委員会



所在地 渋谷区渋谷3-5-12

 御祭神  応神天皇(品陀和気命)

 祭礼日  
1月1日歳旦祭 
2月3日節分祭 
2月初午末社玉造稲荷社例祭 
2月27日祈年祭 
3月最終土曜末社金王丸御影堂例祭(金王桜まつり) 
6月30日夏越大祓 
9月14日例大祭 
11月1ノ酉末社御嶽社例祭 
11月23日新嘗祭 
12月31日大祓 
毎月1日・15日月次祭



 由緒
金王八幡宮は、寛治6年(皇紀1752年 西暦1092年)渋谷氏の祖 河崎基家により鎮祭され、基家の子重家が鎌倉街道沿いの要所であるこの地に館を構えて居城として以来、渋谷氏の氏神として尊崇されました。
渋谷重家には嫡子がなく当神社に祈願をしたところ、大神の御神徳により渋谷金王丸常光のちの土佐坊昌俊を授かりました。金王丸の活躍は平治物語・吾妻鏡などにみられる通りであります。当神社は当初「渋谷八幡宮」と申しておりましたのを、金王丸の名声に因み「金王八幡宮」と称するようになりました。
また、境内の金王桜(渋谷区指定天然記念物)は、頼朝が金王丸を偲び植えたもので、一重と八重が混じって咲く珍しい桜で、江戸三名桜に数えられました。
江戸時代には、竹千代(徳川家光)の教育役の青山伯耆守忠俊と乳母の春日局が三代将軍就任を当神社に祈願し、その願いが成就したのは大神の神慮によることと、現在の社殿及び神門(渋谷区指定文化財)を寄進されました。
時代は変わりましたが、現在も青山・渋谷の氏神様として数多の崇敬を集めております。
 


渋谷区指定有形文化財
 金王八幡宮社殿及び門 附 渡り廊下
     昭和51年(1976)3月26日指定
     平成22年(2010)10月7日追加指定

 社記によると、この八幡は渋谷氏の祖、河崎基家が寛治6年(1092)に創建したといわれます。
 現在の社殿は、徳川家光が三代将軍に決定したとき、守役の青山忠俊が家光の乳母春日局とともに、慶長17年(1612)に造営を開始したものです。その後たびたび修理されましたが、江戸初期の建築様式をとどめている貴重な建物です。
 門は、明和6年(1769)と享和元年(1801)に造られたとする2説があり、江戸中期の建立にはちがいありませんが、その後何度かの修理を経て今日に及んでいます。
 このあたり一帯の高台には、渋谷氏の居館があったと伝わり、東に鎌倉道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、城館を囲んでいるうえ、かつては数か所に湧泉があるという好条件を備えていました。
 しかし、その城館は大永4年(1524)、北条氏と上杉氏の合戦のとき、北条氏の一軍に焼き払われてしまったということです。
 平成22年(2010)には、社殿に附属してその価値をいっそう高める建造物として、渡り廊下が附として追加指定されました。
 渋谷区教育委員会



渋谷区指定有形民俗文化財
 絵馬「大江山鬼退治之図」その一
 絵馬「大江山鬼退治之図」その二

     平成5年(1993)2月5日指定

 二面とも青山百人組から延宝3年(1675)、金王八幡宮に奉納されたもので、室町時代に流布した『御伽草紙』に収められている「大江山の酒呑童子」に基づく絵馬です。
 この鬼退治物語を描いた絵馬は、各地の社寺に奉納されていますが、「討ち入り場面」(その一)と「鬼退治場面」(その二)の2枚の絵に表現したものは作例としても珍しく、また、細密な筆致と豊かな色彩から見て絵画としても優品です。
 大きさは二面とも縦78.5×横105センチメートルです。
 渋谷区教育委員会



渋谷区指定有形民俗文化財
 算額(嘉永3年〔1850〕奉納)
 算額(安政6年〔1859〕奉納)
 算額(元治元年〔1864〕奉納)

     平成5年(1993)2月5日指定

 古代中国から日本に伝えられて、独自の発達をとげた和算の絵馬です。
 算額は、自ら作った問題を絵馬に記し、それを見た者が解答を試みる方式のもので、神社や寺院に奉納されました。添えられた図の多くは着色されており、装飾的な傾向から目立ちやすく、学業成就の祈願のほかに難問を提起して名を広めようとする意図もあったと考えられます。
 この3点は、武家地域と商業地域の接点であった宮益町付近の在住者により奉納されたことが注目されます。そのうちの安政6年(1859)の1点は、西条藩の武士により奉納されました。まあ、元治元年(1864)奉納の算額は、扇面の形をしたたいへん珍しいものです。
 渋谷区教育委員会



 境内には『玉造稲荷神社』、『御嶽神社』、『金王桜』、『金王丸御影堂』、『宝庫之碑』、『明治三十八年戦役記念碑』、『渋谷城 砦の石』があります。


所在地 渋谷区渋谷3-5-12 (金王八幡宮)

 玉造稲荷神社
御祭神  宇賀御魂命
祭礼日  2月初午
創  建      元禄16年(1703)8月
由緒
 宇賀御魂命は、農耕をはじめ諸産業に御神徳があり、屋敷神としても多く祀られております。
 御本社は京都伏見稲荷大社で、伊勢神宮内宮に祀られる天照皇大神のお食事を司る神として外宮に祀られた豊受大神と同神であるといわれております。稲荷神社は全国に約3万社余あるといわれ最も身近な神社の一つです。
 玉造稲荷神社が創建された江戸中期、さらに明治の頃まではこの渋谷も農家が多く稲作がおこなわれ、茶畑も広がっておりました。また、大山道(国道246)宮益坂には町屋が並び商業が盛んでした。これらさまざまな人々の崇敬を集め、その御神光は現在に至るまで変わることなく輝き渡っております。
  金王八幡宮


所在地 渋谷区渋谷3-5-12 (金王八幡宮)

 金王丸御影堂
御祭神  渋谷金王丸常光
祭礼日  3月最終土曜日 金王櫻まつり
由緒
 金王丸は渋谷重家負債が当八幡宮に授児祈願を続ける中、八幡神の霊夢(啓示)により永治元年(1141)8月15日に誕生しました。金王丸17歳の時、源義朝に従い保元の乱に出陣。平治の乱ののち出家し、土佐坊昌俊と称し義朝の御霊を弔いました。また、頼朝とも親交が深く鎌倉幕府開幕にも尽力。義経追討の命を受け、文治元年(1185)10月23日夜、心ならずも義経の館に討入り、勇ましい最期を遂げました。
 頼朝は、金王丸の忠節を偲び、鎌倉の館よりこの地に櫻木を移植し「金王櫻」と名付けました。この御影堂には、保元の乱出陣の折、自分の姿を彫刻し母に残した木像が納められ、更に金王丸が所持した「毒蛇長太刀」も秘宝として保存されております。
   金王八幡宮


所在地 渋谷区渋谷3-5-12 (金王八幡宮)

渋谷区指定天延記念物
 金王桜こんのうざくら
     昭和57年(1982)2月19日指定



 長州緋桜という種類の桜といわれ、花弁は5~7枚ですが、雄しべが花弁化したものも交じっていて、一枝に一重と八重の花が入り混って咲く大変珍しい桜です。また、一名を憂忘桜とも呼称されていたようです。
 この桜については、さまざまな伝承がありますが「金王神社社記」によれば、源頼朝の父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節をしのび、頼朝が金王丸の名を後世に残そうとして、鎌倉亀ヶ谷の館から金王丸ゆかりのこの地に移植したものとされています。
 また、江戸時代に盛んに作られた地誌にも紹介され、郊外三名木のひとつとして有名であったことから、代々実生により植え継がれてきた系統の確かな桜と考えられます。
  渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区渋谷3-5-12 (金王八幡宮)

 御嶽神社
御祭神  櫛眞知命 少名毘古那命 大己貴命 日本武尊
祭礼日  11月 一ノ酉
由緒
 御嶽神社は、「開運」「商売繁昌」の神として特に客商売を営む人々の信仰を広くあつめており本社は武州御嶽山にあります。
 大鳥大神と称える日本武尊は、古来より武道守護の神として武士の信仰をあつめておりました。ここに祀られたのも、この地が武門の誉れ高き渋谷氏の居城であったからと考えられます。
 また、社前の狛犬一対と西参道の鳥居は、かつて実践女子学園の校内にあった「香雪神社」のものを移設したものです。

  金王八幡宮


所在地 渋谷区渋谷3-5-12 (金王八幡宮)

  渋谷城 砦の石

 このあたり一帯の高台は、平安時代末期から渋谷氏一族の居館跡で、東に鎌倉街道(現、八幡道)、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、館を囲んでいるうえ、かつては数ヶ所に湧水があるという好条件を備えていました。しかし、その館いわゆる渋谷城は大永4年(1524)、北条氏と上杉氏の合戦のとき、渋谷氏が高輪原で北条氏と交戦中、北条の一軍により襲われ焼き払われてしまいました。
  金王八幡宮


所在地 渋谷区渋谷3-5-12 (金王八幡宮)

明治三十八年戦役記念碑
 日露戦争の記念碑で凱旋軍人により明治39年(1906)8月建立。揮毫は乃木希典陸軍大将
 この碑は、忠魂碑でなく記念碑であること、傍らに15年、20年、25年、30年の碑が建っていることが大変珍しい。


乃木希典(のぎまれすけ)
 嘉永2年(1849)11月11日長州藩の支藩長府藩上屋敷(現六本木)で出生。陸軍大将、第10代学習院院長として昭和天皇皇族子弟が教育に従事。明治天皇御大葬の9月13日夜、妻静子とともに殉死。
 ご夫妻の精神と永世に伝えることを目的として大正8年(1919)に乃木神社が創建された。乃木家の祖である佐々木秀義に渋谷重國の娘が嫁いでいる。


所在地 渋谷区渋谷3-14

  鎌倉道
 この細い道は、古くから鎌倉道と呼ばれ、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来、東日本の各地に設けられた軍道のひとつといわれています。
 ここから西へ行くと、渋谷川を渡って台地をのぼり、猿楽塚の二つの築山の間を抜けて目黒川にくだり、さらに丸子の渡しを通って神奈川県にはいります。また、東に進むと、青山学院のわきを通り、隠田橋を渡って代々木八幡に達し、さらに大宮八幡に向かっていたといわれています。
 大永4年(1524)に、相模の北条軍がこの鎌倉道を通って江戸に攻めのぼり、その時の戦火が渋谷地域にも及び渋谷館(金王八幡宮東福寺周辺)が焼失したと伝えられます。
 渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区渋谷1-25

  渋谷川

 この緑道の下には、渋谷川が流れています。この川はもともと新宿御苑や明治神宮の池を水源としていましたが、玉川上水が完成してからは、その余水をも流すようになりました。
 昔、上流は余水川、隠田川などとも呼ばれ、下流の天現寺橋から先は古川と名を変えて、今も東京湾に注いでいます。
 清らかな水が流れていたころには、鮎や鰻などもとれ、また渋谷川とその支流には、いくつも水車がかかっていました。葛飾北斎が描いた富嶽三十六景にある「隠田の水車」もそのひとつでした。また灌漑用水としても利用されるなど、付近の人々の生活に深いかかわりをもっていました。
 今では、稲荷橋(JR渋谷駅の南端)から上流は、すべて暗渠になっています。
 渋谷区教育委員会


     昭和26年(1951)東横百貨店から見た原宿方面

 
写真に見える線路の左側遠方、現在の代々木公園のある場所には、ワシントンハイツ、その手前にはかつての渋谷区役所の建物が見えます。渋谷区役所は昭和40年(1965)に現在の場所に移りました。もとの区役所のあった場所は、今は電力館になっています。右に流れる川は暗きょになる前の渋谷川で、川と線路の間の空き地は、のちに宮下公園となります。渋谷川は写真手前で宇田川と合流しているのがわかります。


             明治34年(1901)渋谷川と宮益橋

 写真は明治時代の渋谷川の様子です。中央の橋は宮益橋といい、左へゆくと道玄坂、右にゆくと宮益坂になります。写真の位置のすぐ下流に、かつては水車が回っていました。川岸にあった渋谷学校(のちの渋谷小学校)の運営は、当初、この水車の営業利益でまかなわれていたといいます。



所在地 渋谷区渋谷2

  金王坂

 明治、大正、昭和と波乱万丈の家庭を経て市区改正、町名変更に伴い先輩諸氏の築かれた幾多の功績をたたえ、由緒在る金王の伊t名を保存し、ここに金王坂と命名する。
 昭和54年(1979)5月吉日建立
渋谷駅東口町会 渋谷二丁目町会
渋谷第一町会 渋谷宮益町会

 


所在地 渋谷区渋谷1・2

  宮益坂

 ふじみ坂、または渋谷新町とも呼ばれていました。この坂に沿う家並を、途中の御岳権現にあやかって正徳3年(1713)から渋谷宮益町と称し町奉行管下になりました。
 平成20年(2008)度 渋谷区教育委員会

 


所在地 渋谷区渋谷3

  徒歩橋かちばし

 


所在地 渋谷区渋谷3

  金王橋こんのうばし

 


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