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東京都渋谷区の歴史
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所在地 渋谷区東2-5-6 (渋谷氷川神社)

 この氷川神社の創建は、区内でも古く、かつての下渋谷村、下豊沢村の鎮守社でした。そのころの祭日は、9月29日で当日は境内で相撲が行われ、その相撲場は今も残っています。
 この行事を金王相撲といい、いつごろから始められたか明らかではありませんが、かなり古くから行われていたらしく、近郷はもちろん江戸の町からも見物人が集まり、凶年などには休業しようとしても見物人が集まるので、やむなく興行したといいます。
 ここで相撲をとったのは、本職の江戸の力士ばかりではなく、近郷の若者も大勢参加し、江戸時代の村のレクリエーションの場となっていました。
  渋谷区教育委員会





所在地 渋谷区東2-6-16

天台宗
 慧日山 薬王院 宝泉寺(寶泉寺)

渋谷区指定有形文化財
 木像阿弥陀如来立像
     平成19年(2007)3月1日指定

 本像は当寺の本尊で、両手の第一指と第二指を捻じる来迎印を表す阿弥陀如来立像です。像は頭の頂から両足の枘にいたるまで一本の樹木(針葉樹)から彫り出し、これを耳の後ろを通る線で前後に割り、頭部も首下でいったん割り離し、それぞれの内側に刳りを入れた割矧造という技法が用いられてます。
 端正に身を伸ばして立った姿は、玉眼につくらず彫眼とし、螺髪も小粒に彫出するという手法とともに、平安時代後期の作風を引き継いでいます。しかし、波型の髪際や着衣の細やかで明快な衣文の彫法には、鎌倉時代後期の洗練された表現が際立っています。とくに左肩に大きく折り返してかかる衲衣の纏い方や、体部全面を覆うその装飾的に整えられた衣文表現は、13世紀後半頃の傾向をよく伝えるものといえます。お顔にわずかな整形を加えているほか、袖の大部分を補修しているものの、当初の像容を損なわずに伝存した本像は、区内に伝わる秀れた鎌倉時代の作例として重要です。
 渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区東2-9-1

 温故学会所蔵文化財
1、重要文化財
 群書類従版木  17,244枚
 盲目の国学者・塙保己一が40余か年の苦心のすえ完成したもの
1、東京都重宝
 群書類従跋版木      4枚
 続群書類従目録版木   70枚
 徒然草(上下)版木    79枚
 元暦万葉集(巻1、2、7) 75枚
 


   『御江戸図説集覧』等 版木
 『御江戸図説集覧』をはじめとする、江戸図・刀剣・絵画・易学・漢字学等に関するもの20点の版木1094枚です。それぞれの分野の第一人者が江戸・明治・大正時代に編纂し、当代一流の版木師が彫刻したものです。
 版木はすべて木質の堅い桜材で、両面に文字や絵図が彫り込まれています。摺る時は、版木に墨を塗って染み込ませ、その上に和紙をのせ、バレンで万遍なく圧力をかけて仕上げます。
 ここにある版木は、日本の印刷文かを支え、校正に伝えてきた貴重な文化財です。
  渋谷区教育委員会



建物入口脇には『塙保己一像』があります。


所在地 渋谷区東2-9-1 (温故学会会館)   

盲学者 塙保己一 はなわほきいち
     延享3年(1746)~文政4年(1821)

 塙保己一は、延享3年(1746)5月5日、今の埼玉県児玉町保木野に生まれた。父は荻野宇兵衛、母はきよ。名は寅之助。7歳の時、肝の病により失明、名を辰之助とかえ、一名多聞房となのる。12歳の時、母をうしなう。
 宝暦10年(1760)に江戸へ出て、雨富須賀一検校の門人となる。時に15歳。名を千弥と改め、『般若心経』読誦千日の願を立て、衆分に至らんと決意する。その間、師匠から鍼・灸・按摩などを習うが、いっこうに上達しなかったという。それに引きかえ隣家にすむ旗本松平乗尹から手ほどきをうけた学問は大いに進み、その好学心に感心した乗尹のはからいで、萩原宗固・山岡浚明らから、文学・律令・神道・医学などを学ぶ。
 宝暦13年(1763)に衆分に進み、名を保木野一とし、生まれ故郷の保木野村へ思いを寄せる。明和3年(1766)21歳の春、父と共に関西に旅行したとき、京都の天満宮に詣で、菅公を守護神と心に決める。明和6年(1769)、宗固のすすめで加茂真淵の門に入り、六国史を学ぶ。真淵に就いた期間はわずか半年であったが、師から得た学問は貴重な財産となる。
 安永4年(1775)、勾当に進んだのを機に、師・雨富検校の生家の苗字をもらい塙姓を称し、名を保己一と改める。『文選』に「己を保ち百年を安んず」とあるのを出典とした名で、100歳までも生きて目的を遂げたいとの意味にも読める。安永8年(1779)には、散逸のおそれのある1巻、2巻の貴重な書物を集めて版行しようと、『群書類従』の編集、刊行を企図し、これ以降足かけ41年の歳月をかけ、文政2年(1819)に670冊の刊行を完了した。
 この間、天明3年(1783)には検校にのぼり、天明5年(1785)には水戸藩の彰考館に招かれ、『参考源平盛衰記』の校訂にあずかり、続いて『大日本史』の校正にも参画する。寛政5年(1793)には、幕府から和学講談所の設立を許され、建設費350両の借用もかない、年内に完工する。この後、版木倉庫の建設費、諸書の編集、刊行費も幕府から借用し、さらに大阪の鴻池(草間)伊助から1500両もの大金を借り入れ、事業を推進する。寛政11年(1799)には、堂上諸家の家記類の書写を計画、またこれまで六国史の中で逸書であった『日本後紀』を発見、ただちに刊行し、ここでいよいよ菅公の志を継いで六国史に続く史料の編集に着手する。塙史料とよばれるこの編集事業は現在、東京大学史料編集所の「大日本史料」編集事業に継承されている。
 文政4年(1821)2月、総検校に昇進。この年9月12日逝去。76歳。法号を和学院殿心眼智光大居士という。墓は東京都新宿区若葉2丁目愛染院にある。明治44年(1911)6月、特旨をもって正4位の位記を追贈された。

    『群書類従』
 総数1,273種(現在1,277種)の貴重な書物を収録、これを25武門に分類し、670冊(現在665冊、目録1冊)に仕立てた大叢書。この叢書によって、わが国の貴重な書物が永久に散逸から救われ、いつでも、だれでもが利用できるようになった恩恵は大きい。版木はすべて桜材で、総計17,244枚あり、昭和32年(1957)に国の重要文化財に指定され、版木倉庫内に完全保管されている。このほか『徒然草』『元暦校本万葉集』ほか版木(東京都有形文化財・典籍)、及び『御江戸図説集覧』ほか版木(渋谷区重要文化財)も保管されている。
 三重の障害をもつヘレン・ケラーは、「私は子どものころ、母親から塙保己一先生をお手本にしなさいと励まされて育った」と語っている。そのケラーが昭和12年(1937)4月26日に本会を訪ね、塙保己一の銅像と版木に手を触れ、盲学者への感懐を深くしている。
 『群書類従』は、全世界に共通の文化遺産であり、塙保己一の業績を永遠に伝えるあかしである。

    温故学会
 塙保己一の遺志を継承し、その遺業を大成する目的で、明治42年(1909)末に創立する。大正11年(1922)に社団法人組織に改め、文部省認可の公益法人となる。創立発起人=塙保己一曾孫塙忠雄・子爵渋沢栄一・宮中顧問官井上通泰・文学博士芳賀矢一。

   〔主要事業〕
(1)『群書類従』ほか版木の保管と摺立
(2)塙保己一の著書及び関係図書の発行
(3)塙保己一に関する研究と成果の発表
(4)塙保己一記念文化史料館の経営
(5)塙保己一生誕・周年忌記念大会の開催
(6)塙保己一展、講演会、諸行事の開催
(7)一般人、学生、生徒、児童の参観受入れ
(8)全国盲・ろう学校、点字図書館との連携
(9)全国研究機関、図書館等との情報交換
(10)その他、塙保己一の顕彰にかかわる事業



所在地 渋谷区東2-10

 服部南郭は、江戸中期の儒学者。漢詩人で幼名を勘助、のち元喬といい字を子遷、書斎を芙蕖館と称しました。
 この場所は、南郭の別邸があったところで邸前にある坂道は、昔から南郭坂あるいは富士見坂と呼ばれてきました。
 南郭は、天和3年(1683)に京都に生まれ、16歳の時に和歌と絵画をもって江戸の柳沢吉保に仕え、また、荻生徂徠の門人となって、古文辞学と詩を学びました。34歳の時、柳沢家を辞し、ここの別邸で塾を開いて在野の人となり、もっぱら漢詩文に親しみ、後継者の育成に努めました。宝暦9年(1759)没。享年77歳。
 著書に「南郭文集」「大東世語」「南郭先生燈下書」などがあります。
 渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区東3-3-3

渋谷区立広尾小学校 
  旧東京市立広尾尋常小学校


 関東大震災によって被災した都内の区立小学校は、震災復興事業の大きな柱として、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造りの校舎に建て替えられるようになった。



 昭和初期の区立小学校校舎には2つの傾向があった。1つは、インターナショナル・スタイル(国際建築様式)と呼ばれる装飾性の少ない機能主義的な建物で、他の1つは、この小学校のような壁面に装飾性を加味した建築である。



 特に、この小学校は、コの字型の校舎配置の東北隅部に高い塔をあげている。この塔は当時消防署の望楼を兼ねて建てられたことを示している。この望楼の意匠と玄関廻りの装飾に当時流行していた表現主義のデザインがみられる。




設計者 東京市土木局建築課
建築年 昭和7年(1932)


所在地 渋谷区東3-10-13

福昌寺



 境内には、『阿弥陀石棺仏』、『花供養塔』があります。






所在地 渋谷区東3-10-13 (福昌寺)

 石棺仏とは、古墳時代の石棺を転用して、そこに仏像を彫り込んで路傍に立て庶民が礼拝の対象としたものです。本石棺仏は、古墳時代中後期頃の家型石棺の蓋を利用しており、その内側は長方形に彫り窪められています。中心部に表されるのは蓮台上に立つ阿弥陀如来像で、船形光背を負い、来迎印を結ぶ姿が浮彫りされています。現存する阿弥陀石棺仏の多くが坐像であり、このような立像は稀な例になります。
 この石棺蓋の材質は、兵庫県高砂市・加西市付近を産地とする播磨竜山石と考えられます。石棺仏が彫られた時期は、その像容や年紀を持つほかの作例から見て、南北朝時代頃と推定されます。現状は石棺蓋の上端部に物が奉置されるような窪みが穿たれていますが、阿弥陀如来像や蓮華座に破損や摩滅等がほとんど見られず、保存状態は比較的良好です。
 この阿弥陀石棺仏は、和歌山県那賀郡から運ばれて来たものと伝えられ、昭和25年(1950)頃に造園業を営む東光園が入手して当寺に寄進したもので、東京では本例のみという珍しいものです。
 渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区東3-10-13 (福昌寺)

 花は天地自然の美しき心を姿色香にあらわし 人の世の喜怒哀楽につけて その人の心を和らげ慰め励まし無量の福楽を与え来れるものなり
 その花を己が商とすることを天職と思い 花を愛し 花と天地自然に感謝しつヽ生花を商う 願心の施主横山サダ及び同業の有志相寄りて人々の心を慰め散り行ける多くの花の命に感謝し慰霊せんものと 渋谷山福昌寺の聖域をトし 茲に供養塔を建立し 併せて施主家の家門興隆同業有志各家の繁栄 業界の発展を祈念するものなり
 昭和丙辰51年4月吉日 花供養塔建立協賛会


所在地 渋谷区東3-17

 この橋供養碑は、寛政11年(1799)にたてられた数少ない珍しいものです。上部の青面金剛像のほかに、四面すべてに、橋講中世話役や万人講及び、個人の名が多数刻まれています。
 それらの人びとの地域をみますと、渋谷はもとより麹町、赤坂、芝、麻布、四谷、大久保、池袋、市ヶ谷方面から、目黒、中野、世田谷、荻窪といった広い範囲にわたっています。
 こうしたことからみますと、庚申橋を通る道は、江戸時代には重要な交通路であったことがわかります。
 渋谷区教育委員会




所在地 渋谷区宇田川町1-1 (渋谷区役所) 

  なかよし像
 私どもは、世界の恒久平和と人類永遠の繁栄を心から希求する。
 私どもは、昭和35年(1960)2月10日世界連邦の趣旨に賛同し、世界連邦都市を宣言した。
 ここに、この像を建立し、訪れる人ひとりひとりに私どもの願いを伝えたい。
 昭和54年(1979)10月29日 渋谷区





所在地 渋谷区宇田川町1-1 (渋谷区役所) 

  渋谷・トルコ 日本友好碑
 2003年は、日本におけるトルコ年です。
 渋谷区は、トルコ共和国と渋谷公会堂での「夕星の調べ」、松涛美術館における「トルコ現代絵画展 工芸とイズニックタイル展」を共催するなど交流を深めてまいりました。
 この碑は、渋谷区とトルコ共和国大使館が連携と親睦を深めて「平和・国際都市 渋谷」を推進する象徴として、トルコ共和国から渋谷区に贈られたものです。
 2003年10月 
 駐日トルコ共和国特命全権大使
 渋谷区長 桑原 敏武

寄贈  平和の鐘
東京渋谷ロータリークラブ 創立10周年記念
建立 平成22年(2010)10月1日平和・国際都市 渋谷の日

Danating   BELL for PEACE
TOKYO SHIBUYA ROTARY CLUB
The  10th anniversary of establishment
Build Oct.1.2010
SHIBUYA Peace-International City Day


所在地 渋谷区宇田川町1-10

  二.二六事件慰霊像(2.26事件)
昭和11年2月26日未明、東京衛戍歩兵第一第三連隊を主体とする1500余の兵力が、かねて昭和維新断行を企図していた。野中四郎大尉等青年将校に率いられて蹶起した。
当時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
蹶起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸陸軍省警視庁等を占拠した。
齊藤内大臣高橋大蔵大臣渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い、岡田総理大臣牧野前内大臣は危く難を免れた。
此の間、重臣警護の任に当たっていた警察官のうち5名が殉職した。
蹶起部隊に対する処置は4日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮壓に變轉したが2月29日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に終結した。
世に是れをニ・ニ六事件という。



昭和維新の企図壊れて首謀者中、野中、河野両大尉は自決、香田、安藤大尉以下19名は軍法会議の判決により東京陸軍刑務所に於て刑死した。
此の地は其の陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した19名と是れに先立つ永田事件の相澤三郎中佐が刑死した処刑場跡の一角である。
此の因縁の地を選び刑死した20名と自決2名に加え重臣警察官其の他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく廣く有志の浄財を集め事件30年記念の日を期して慰霊像建立を発願し、今ここに其の竣工をみた。
謹んで諸霊の冥福を祈る
 昭和40年(1965)2月26日 佛心會代表 河野司 誌


所在地 渋谷区宇田川町7-1

  国木田独歩住居跡
 国木田独歩は、明治4年(1871)調子に生まれ、明治29年(1896)ここに移り住み、名作「武蔵野」の構想を練りました。また「源叔父」「欺かざる記」もここで執筆しましたが、翌明治30年(1897)6月麹町に移りました。
 平成20年度 渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区宇田川町10-2

  宇田川地蔵
 円い頭(比丘僧形)をして衣をまとったお地蔵様は、大衆にとって最も身近な菩薩です。



 地蔵菩薩は、現世と来世との間にたって、人が死んだ時には、その魂を救ってくれるものと信じられてきました。
 このような考え方ですから、その進行が大衆に伝えられた時代はかなり古く、また、広い階層にわたっています。
 正面の地蔵尊像は、最近の造立ですが、右横にある像は、もと道玄坂下にあったもので、元禄元年(1688)の造立です。



 なお、堂外右手には戦災で破損しているものや台座のみのものを含めて3基の庚申塔があります。
  渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区宇田川町13-11 

山路愛山終えんの地

 史論家として知られる山路愛山は、元治元年(1864)浅草に生まれました。明治29年(1896)から大正6年(1917)、54歳で没するまでここに住み、多くの作品を発表しました。代表的な著書に「豊太閤」「西郷隆盛」「足利尊氏」などがあります。
 平成8年(1996) 渋谷区教育委員会


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