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東京都渋谷区の歴史
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所在地 渋谷区神宮前5-26-6

  穏田神社
 
河野カタ女史は漢方医薬の大家にて敬神の念厚く特に当穏田神社には日参数年その間戦災に依る境内の荒廃に心寄せられ拝殿、神楽殿、稲荷社、渡橋等ご奉納の篤志に対し氏子総代相はかり胸像を建立永遠に女史の志を彰するものである
 昭和40年(1965)6月吉日
 穏田神社氏子総代  題字は明治神宮宮司 甘露寺受長氏書
 









 穏田神社境内には『河野カタ女史像』があります。
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所在地 渋谷区神宮前5-26-6 (穏田神社)

  河野カタ女史像



河野カタ女史は漢方医薬の大家にて敬神の念厚く特に当穏田神社には日参数年その間戦災に依る境内の荒廃に心寄せられ拝殿、神楽殿、稲荷社、渡橋等ご奉納の篤志に対し氏子総代相はかり胸像を建立永遠に女史の志を彰するものである
 昭和40年(1965)6月吉日
 穏田神社氏子総代  

  題字は明治神宮宮司 甘露寺受長氏書


所在地 渋谷区神宮前6-25-12

曹洞宗
 慈雲山 長泉寺



 長泉寺境内には『石仏群』があります。


所在地 渋谷区神宮前6-25-12 (長泉寺)

  石仏群 
 墓地の奥には、二百数十体の石仏が並んでいます。大部分は地蔵ですが、そのほかに聖観音をはじめ各種の観音像などが見られます。いずれも民間で作られたと思われる素朴な石仏で、かつてこの付近に建てられてあったものが宅地造成などの折に、ここへ集められてきたということです。
 石仏に掘り込まれた年号から、このあたりにはかなり古くから地蔵信仰や観音信仰があって、村びとたちのあいだで講(グループ)が作られていたことがわかります。講では特定の日に持ち回りで家に集まり、仕事を休んで念仏をとなえたり、酒食を提供して語りあったり、子供に菓子を与えたりして過しました。楽しみの少なかった当時の村では貴重な娯楽のひとつでした。
 渋谷区教育委員会 
 





所在地 渋谷区神南2-1~神宮前6

  水無橋みずなしばし
 表参道駅方面から神宮前5丁目~神宮前6丁目を横断し、ここに至る道路は歴史が古く、江戸時代からあったものです。青山から代々木村に達するただ一つの幹線道路でした。
 明治16年(1883)に日本鉄道の品川・赤羽線(現在の山手線の前身)の建設が計画されましたその線路を敷くために、新たな切り通しがここに作られました。そのため、今まで使っていた大切な道路が切られてしまうということで、線路の上に架けられたのがこの水無橋です。陸橋として作られたものでは、東京でも古い方でした。その後、今の橋に架け替えられています。
 渋谷区教育委員会



 


所在地 渋谷区代々木3-23-3

 天満宮は『箒銀杏』の根元にあります。


所在地 渋谷区代々木3-27-5

浄土真宗東本願寺派
 柴山 安養院 正春寺 
 

本尊 阿弥陀如来
開基 正春院釈尼清安
開山 秀教坊正入(俗姓は土井甚三郎昌興、徳川氏の直参。関ヶ原の戦い後に出家す)
創立 慶長19年(1614)4月湯嶋南ヶ丘(現在の文京区湯嶋3丁目)に建立。専西寺と号す(当初は天台宗)

元和6年(1620) 正入の祖母である初台局が賜った知行所代々木の地に専西寺を建立。正入は湯嶋と代々木の二ヶ寺を兼務。

寛永元年(1624) 浄土真宗に改宗。

天和3年(1683) 湯嶋専西寺類焼のため同地を引き払いすべて代々木の専西寺へ引き移す。

元禄5年(1692) 正春院(梅園局)の由縁を追思し寺号を正春院と改む。


 正春院ゆかりの人々

 土井利勝
三河国刈屋城主、水野信元の子。家康公の命により2歳で土井利昌の養子となる。将軍秀忠、家光に仕え大老となる。下総国古河十六万石の藩主となる。

 初台局
大河内正頼の妹で土井昌勝の妻となる。2代将軍秀忠の乳母となり初台局と称す。その功により、天正19年(1591)代々木村に乳母料として二百石の知行地を賜る。よって初台の地名今に残る。
法名は安養院釈尼香薫

 梅園局
初台局の娘。3代将軍家光の乳母。木村吉次を婿としたが将軍秀忠の命により、土井を改め柴山と改姓した。
開山正入の母。法名は正春院釈尼清安

 平成2年(1990)庚午12月


所在地 渋谷区代々木4

  切通坂(切通しの坂)
 
 画家岸田劉生は、大正3年(1914)から大正5年(1916)にかけて代々木山谷に住んでいたので、このあたりを描写した作品がたくさんあります。そのうちの1点に名作「道路と土手と塀(切通之写生)」(重要文化財)があり、この前の坂を描いたものです。 
 平成23年(2011)度 渋谷区教育委員会



 


所在地 渋谷区渋谷3-15

  鎌倉道

 この右手の細い道を、古くから鎌倉道と呼び、源氏が鎌倉に幕府を開いて以来、東日本の各地に設けた軍道のひとつといわれています。
 ここから西へ行くと、渋谷川を渡って台地をのぼり、猿楽塚の二つの築山の間を抜けて目黒川にくだり、さらに多摩川を渡って神奈川県にはいります。
 また、東に進むと、青山学院の付近を渡り、千駄ヶ谷方面に達し、さらに東北地方に向かっていたといわれています。
 大永4年(1524)に、相模の北条軍がこの鎌倉道を通って江戸に攻めのぼり、その時の戦火が渋谷地域にも及び金王八幡宮付近にあった城館が焼失したと伝えられます。
 渋谷区教育委員会 



所在地 渋谷区代々木3-26-1

真宗大谷派
 聖徳山 諦聴寺
たいちょうじ



 諦聴寺境内には『茶室花雲』、『木造聖徳太子立像(孝養像)』があります。

 

所在地 渋谷区代々木3-26-1 (諦聴寺)

渋谷区指定有形文化財
 茶室花雲ちゃしつかうん
     平成22年(2010)10月7日指定

 花雲は昭和3年(1928)に上野公園で開催された大礼記念国産振興東京博覧会のためにつくられた茶室と伝わり、数奇屋師・木村清兵衛(3代目)の作といわれています。その扁額は、近代の茶の湯文化を牽引した益田孝(鈍翁)の揮毫によります。
 茶室の構成は、三畳台目・下座床で、にじり口と貴人口が併設され、水屋と腰掛待合は一棟にまとめられています。意匠的に大きな特徴は、大阪府に所在する水無瀬神宮燈心亭(重要文化財)を「本歌」とした「写し」であるということです。材料の仕上や組み合わせ、天井と屋根の構成などに数奇屋師・木村清兵衛の作風も認められます。茶室を構成する材料は、吟味された銘木・銘竹などであり、いずれも希少で良質な材が使われています。
 本茶室は三度の移築を受け、そのため造営当初の経緯は伝承の域をでません。しかし、近代の茶の湯文化の興隆において中心的役割を担った益田鈍翁と、著名な数奇屋師・木村清兵衛の関わりは確かです。花雲は、数奇者と数奇屋師が協同し、歴史的な名席を独自に解釈しつつ新たな茶室を作り出すという、近代における和風建築の天海を物語る上でも貴重な茶室であります。
 渋谷区教育委員会

所在地 渋谷区代々木3-26-1 (諦聴寺)

渋谷区指定有形文化財
 木造聖徳太子立像(孝養像こうようぞう
     平成20年(2008)2月28日指定

 この像は、頭髪を中央で左右に振り分け、顔のつくりも明らかにしない立ちすがたで神像を思わせますが、当初は両耳辺で髪を美豆良に結い、いま見るように柄香炉を手にしていたと考えられます。風化による木のやつれが全身に見られ、両手先や香炉のほか台座も近世のものに替わっており、保存状態が良好とはいえませんが、聖徳太子の16歳の姿を表したという孝養像にあたります。
 木彫による太子孝養像は、鎌倉時代以降各地で盛んに造立され、なかには坐像や倚像もありますが、本像のような直立像が一般的です。そのすがたは、太子が父用明天皇の病気平癒を祈るものとされますが、中世になると浄土真宗の太子信仰と結びつき、彫像や絵像が多く作られます。本像はヒノキの一木造で、簡素な彫法から南北朝時代から室町時代にかかる頃に造られたとみられます。
 諦聴寺が四ッ谷から現在地に移転するのは嘉永3年(1850)ですが、太子像はそれ以前から伝えられていたといいます。本像は、区内の真言宗寺院に伝わる聖徳太子孝養像の稀少な作例であり、彫刻史のみならう信仰史の上からも貴重な作です。
 渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区本町2-44-3

真言宗室生寺派
 光明山 真言院 荘厳寺


                               幡ヶ谷不動尊(不動堂)


                                           山門


                                           本堂


                                          大師堂











 荘厳寺境内には『常夜燈』、『筆塚』、『幡ヶ谷不動尊吟碑』があります。



所在地 渋谷区本町2-44-3 (荘厳寺)

  道しるべ
 荘厳寺門内左手にある常夜燈じょうやとうは、現在の環状六号線と甲州街道の交差点付近にありましたが、道路工事のためここに移されました。
 この常夜燈は、嘉永3年(1850)に建てられたもので、台石中段には幡ヶ谷の荘厳寺、十二社じゅうにそうの熊野神社、大宮八幡宮、井の頭弁財天までの距離が刻まれていて、道しるべの一種であったことがわかります。
 また、台座には多数の人名が刻んであり、それによると、当地の人はもとより江戸市中の各地、遠くは神奈川県在住の人びとによって常夜燈が造立されたこともわかります。
 また、墓地への通路の左側に、俳人松尾芭蕉

  暮おそき 四谷過ぎけり 紙草履

という句を刻んだ碑があることなどから、江戸時代には市中からこのあたりまで、人の往来がかなり多かったと思われます。
  渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区本町2-44-3 (荘厳寺)

 幡ヶ谷不動尊吟碑

高縁に ひくく 信鼓や 初あかり
                    胡鷲


所在地 渋谷区代々木4-23-13

法華宗本門流
 白蓮山 立正寺

 当地は土佐二十三石の大名山之内一豊公元江戸下屋敷にて歴史の薫りと時空を越えた生命の永遠性を湧きいたしています



 
 代々木七福尊神奉安
 法華経本門上行体内より湧出され、当山に勧請の七福尊神は常に正しい教えの中に健康と長寿、現世安穏、心願成就をお守り下さっています。

                  
                                                 浄行菩薩


 


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