東京都渋谷区の歴史
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× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 臼田亜浪の句碑 そのむかし 代々木の月の ほととぎす 亜浪 臼田亜浪(1879~1951)俳人。長野県出身。法政大学卒。大須賀乙字と俳誌「石楠(シャクナゲ)」を創刊して、高浜虚子らの俳誌「ホトトギス」に対抗した。この碑は、その創刊20周年を記念して昭和9年(1934)に建てられたものである。 明治・大正の頃までは、まだ、このあたりは東京近郊ののどかな田園地帯であった。 PR 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 絵馬 伝「神功皇后之図」 神功皇后に関する神話の絵馬で、神功皇后とその乳飲み子(後の応神天皇)、従臣の武内宿禰が描かれています。 一般に見られる作例と異なり背景の表現は少なく、人物を主体とした構成と雄渾な作風は、その彩色とともに明らかに芝居絵と共通している点で注目されます。 天保11年(1840)に奉納されたものですが、このような大絵馬(縦139×横194センチメートル)が、芝居関係者の参詣が多かった江戸下町の有名社寺の場合とは異なり、江戸の郊外であった代々木に存在していたのは珍しいことです。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 絵馬「代々木八幡縁起絵」 区指定有形民族文化財 平成4年(1992)10月1日指定 代々木八幡宮社伝によると、源頼家の家臣、近藤三郎是茂の家人荒井外記智明は、頼家が修善寺で殺害された後に名を「宗友」と改めて代々木に引きこもり、建暦2年(1212)8月15日夢の中で大神から宝珠のような鏡を授かったので源氏の守り神である鶴岡八幡宮の分霊をまつり、小祠を営んだのが代々木八幡宮の創建といわれています。 この絵馬は、その経過を表現したもんで、このような作例は少なく筆致も優美なもんです。天保12年(1841)に奉納された縦139×横186センチメートルの大絵馬です。 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 訣別の碑 この一対の燈篭は、明治42年(1909)、代々木の源(現在の代々木公園)に陸軍練兵場が設けられたとき、移転を余儀なくされた住民がこの地との別れを惜しんで奉納したものである。 訣別の言葉は竿石部分にあり、拝殿に向かって左側には、「大字代々木深町ハ明治40年(1907)11月11日陸軍練兵場ニ指定セラレタリ、常ニ一家ノ如クナル温情深キ住民ハ区々ニ移転スルノ際」・続けて右側には「各々其ノ別ルルヲ惜ミ又字ノ消サラン事ヲ想ヒ、茲ニ燈ヲ納メテ之ヲ紀念トス 明治42年(1909)1月建設 良■拝書」とあり、この下段に奉納者の17名の名前が刻まれている。 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 出世稲荷社 祭礼日・旧暦初午の日 第二次大戦末期の昭和20年(1945)5月25日夜、このあたりは米軍の空襲により大きな被害を受けた。幸い神社は焼け残ったが、周辺は一面焼野原となり、その焼跡には家々で祀っていた稲荷社の祠や神使の狐などが無惨な姿をさらしていた。それらを放置しておくのはもったいないと、有志の人々らが拾い集め、合祀したのがこの稲荷社の最初で戦災の記憶と平和の大切さを偲ぶよすがともなっている。 なお、祭礼日の旧暦初午の日には、さまざまな祈願をこめた紅白の幟の奉納が行なわれる。 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 菅公一千年 歌碑 千とせ経て ますます高しつくしがた みけし(御衣) あふぎし神のみいつは 正三位勲二等子爵 福羽 美静 文化学園の西側、甲州街道から入ったところに銀杏天神社があった。元和3年(1617)勧請、大正院持、社地は127坪あったという。そこには箒銀杏と呼ばれる大樹があり、御祭神の菅原道真公没後1000年を記念して歌碑がつくられた。天神社は明治33年(1900)5月、代々木八幡宮の末社に合祀され、歌碑も移転された。現在も天神社の跡地には小祠があり、この歌にも詠まれた箒銀杏がしげっている。 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 代々木八幡遺跡 区指定史跡 昭和52年(1977)5月26日指定 代々木八幡宮は標高約32メートルの台地上にあって、その境内から石器時代の遺物が発見されていました。 昭和25年(1950)、渋谷区でここを発掘したところ多数の遺物とともに、ロームを浅く掘りくぼめた住居と、その中に掘られた柱穴を発見しました。 ここから出土した加曾利E式土器によって、この住居には約4500年まえに人が住んでいたと推定されます。 渋谷区では、この住居跡にたてられてあった古代住居を復原して、その保存につとめております。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 代々木八幡宮神輿 此の宮神輿は、大正12年(1923)8月、渋谷区新町町会(現代々木3、4丁目)の有志により、千葉県行徳の神輿師の許で造られ、祭礼のたびごとに賑々しく町内を巡行していたが、人口の減少にともない、永久保存を願って昭和37年(1962)9月、代々木八幡宮の宮神輿として奉納された。 関東大震災、東京大空襲の二度の大災害を無事くぐり抜けてきたが、傷みがひどくなったため、平成3年(1991)12月、平成御大典並びに御鎮座780年祭を記念して、氏子崇敬者770名の奉賛(2千万円)により、板橋の東京神輿センターで約70年ぶりに全面的な買いたい修理が行なわれ、面目を一新して今日にいたっている。 平成7年(1995)9月吉日 代々木八幡宮 総代会 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 八幡宮紀念の碑 明治34年(1901)、拝殿の改築が成った際、建立された。顕額は府知事・千家尊福、撰文は神田明神祠官・平田盛胤、執筆は子爵・福羽美静(ただし、福羽翁は高齢で病気がちであったため、門弟の野村伝四郎が代筆、裏面は義弟の福羽良曠)による。以下全文。 「これの處の底つ岩根に宮柱太しき建て 天津御空に千木高知り鎮り座します村社若宮八幡宮はしも順徳天皇の御字建暦二年(1212)九月二十三日といふに この地に往せし荒井宗友の霊夢により勧請し奉りし大神なり そもこの宗友は頼家将軍に仕へし者の家人なりしかばそのかみ鎌倉に在りて鶴岡八幡宮は産土の神におはしまししより ここに退隠したる後も朝夕の拝禮懈怠なかりき 然るに建暦二年(1212)八月十五日の夜 大神の御さとしによりて 贅珠の如き鏡を感得しければ 宗友の喜び限■■■■の地の■■を披きて小祠を営み 同年九月二十三日始めて御祭を行ひに■これぞこの御社の起原にして毎年大祭を九月二十三日に行ふもこの故なりけり 後 徳川幕府の頃となりては神仏混清の風なりしかは別当を贅珠山福泉寺皆明院と称し 社地八十坪ばかりなりしが 明治維新の後に五段五畝二十四歩と改定せられぬ」 所在地 渋谷区代々木5-2-1 (福泉寺) 庚申塔 庚申の信仰は中国の道教思想に基づくもので、江戸時代盛んになり、村の辻などに庚申供養塔が建てられました。 庚申信仰は、60日ごとにめぐり来る庚申の夜、眠り込んだ人の体内から三尸と呼ばれる虫が出て天帝にその人の罪過を報告し、罰が下されるというもので、寝てはいけないと信じられていました。 庚申堂や当番の人の家に集まった村人たちは、一晩中勤行をして夜明けを待ちました。その仲間を庚申講と呼んだのです。この人びとによって庚申塔は建立されました。庚申塔の多くは、青面金剛像が刻まれ、その下に三猿が彫られています。 ここにある庚申塔の年記をみると、宝永6年(1790)、宝暦5年(1755)、寛政6年(1794)などと刻まれています。 渋谷区教育委員会 |
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