東京都渋谷区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 渋谷区本町1-9-17 (高知新聞社員寮) 旗洗池跡 後三年の役(1083~1087)ののち、八幡太郎義家が上洛のときにこのあたりを通り、この池で白旗を洗って傍らの松にかけて乾かしたという伝説があります。その白旗はのちに金王八幡宮の宝物となり、いま残されている旗がそれであるといわれています。 この池は60平方メートル程の小さな池で、肥前唐津藩小笠原家の邸宅内にあり、神田川に注ぐ自然の湧水でした。昭和38年(1963)に埋められ、今は明治39年(1906)4月、ここに遊んだ東郷平八郎筆「洗旗池」の記念碑だけが残されています。 源義家がはたして白旗を洗ったかどうかについての証拠はありません。しかし関東地方特有の源氏伝説のひとつであり、幡ヶ谷というこの付近一帯の地名の起源となった有名な池だったのです。 渋谷区教育委員会 PR 所在地 渋谷区本町2-44-3 (荘厳寺) 道しるべ 荘厳寺門内左手にある常夜燈じょうやとうは、現在の環状六号線と甲州街道の交差点付近にありましたが、道路工事のためここに移されました。 この常夜燈は、嘉永3年(1850)に建てられたもので、台石中段には幡ヶ谷の荘厳寺、十二社じゅうにそうの熊野神社、大宮八幡宮、井の頭弁財天までの距離が刻まれていて、道しるべの一種であったことがわかります。 また、台座には多数の人名が刻んであり、それによると、当地の人はもとより江戸市中の各地、遠くは神奈川県在住の人びとによって常夜燈が造立されたこともわかります。 また、墓地への通路の左側に、俳人松尾芭蕉の 暮おそき 四谷過ぎけり 紙草履 という句を刻んだ碑があることなどから、江戸時代には市中からこのあたりまで、人の往来がかなり多かったと思われます。 渋谷区教育委員会 |
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永山
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