東京都渋谷区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 「代々木囃子」説明版 代々木囃子は、江戸末期に代々木八幡宮の中で行なわれていた「目黒流囃子」を、時の神官が地域の農民に教えたことに始まるといいます。現在、保存絵が使用している囃子鉦に「天保2年(1831)辛卯二月 代々木若」という記銘があり、言い伝えは信憑性が高いと思われます。その後、明治・大正期と盛んに行われましたが、関東大震災の時に一時中断しました。総和に入っても継続されますが、第二次世界大戦が始まってからは低迷し、ついに中断を余儀なくされてしまいました。戦後、氏子らが先頭に立って復興させ、昭和21年(1946)に「代々木囃子保存会」を結成し、その保存活動を続け、現在に至っています。 「代々木囃子保存会」は、代々木八幡宮の祭礼を中心に活動を続けています。2月の初午祭、5月の五社宮祭、9月の例大祭に町内を廻り、最後は神社の奉納します。このほか、正月には保存会の会員や依頼のあった家などの門口で獅子舞と一緒に演奏して廻り、最後は代々木八幡宮に奉納しています。 渋谷区教育委員会 PR 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 威徳大業碑 寺田社は建暦2年(1212)の創祀暦算して本年760歳且又寛文11年(1671)中興治山この地に移りしより参百春秋加ふるに現存本殿の造立は明治5年(1872)それより實に壹百星霜奇しき神縁と謂ふへし依て深く期する所あり 曩に社有地処分によりて得たる代償を以て多年の懸案たりし覆殿造営並に廻廊社務所等の建築に附して社殿神域内外の改修を以て記念の挙となさんとす 茲に敬神諸家協賛関係各位の盡■その至誠凝り聚るところ其工期■餘に亘り其資辨壹億を超えたり斯くて所期■■の大要を成就し■りぬ 噫乎神■深遠民心亦壮なるかな 敬白 昭和46年(1971)9月吉日 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 稲荷社・天神社・榛名社 稲荷社(御祭神・・・豊受大神) 天神社(御祭神・・・菅原道真公) 榛名社(御祭神・・・日本武尊) 祭礼日・・・五社宮祭 5月23日 稲荷社と天神社については、江戸時代、大和国岩掛城主・山田政秀の第六女、紀州家側室延寿院殿が守護神として祀っていたものが奉祀されたと伝えられている。その後、明治33年(1900)、神社合併政策により、山谷301番地(現在の参宮橋駅の西)にあった掘出し稲荷と、新町3番地(現在の文化学園の西)にあった銀杏天神社がそれぞれ合祀された。 榛名社については、この地域で雨乞い豊作の祈願のために上州の榛名山まで参詣するという習慣があったことから、おそらく各村や家に祀られていた榛名社が、やがて氏神様である八幡宮の境内に移されたものと思われる。 また、本田の八幡宮の相殿としてやはり明治33年(1900)、山谷365番地(現在の代々木公園駐車場あたり)にあった天祖社と、同じく山谷139番地(現在の南新宿駅の北)にあった白山社が合祀された。このため稲荷・天神・榛名社と両社を合わせて祭礼を五社宮祭と称することになった。 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 臼田亜浪の句碑 そのむかし 代々木の月の ほととぎす 亜浪 臼田亜浪(1879~1951)俳人。長野県出身。法政大学卒。大須賀乙字と俳誌「石楠(シャクナゲ)」を創刊して、高浜虚子らの俳誌「ホトトギス」に対抗した。この碑は、その創刊20周年を記念して昭和9年(1934)に建てられたものである。 明治・大正の頃までは、まだ、このあたりは東京近郊ののどかな田園地帯であった。 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 絵馬 伝「神功皇后之図」 神功皇后に関する神話の絵馬で、神功皇后とその乳飲み子(後の応神天皇)、従臣の武内宿禰が描かれています。 一般に見られる作例と異なり背景の表現は少なく、人物を主体とした構成と雄渾な作風は、その彩色とともに明らかに芝居絵と共通している点で注目されます。 天保11年(1840)に奉納されたものですが、このような大絵馬(縦139×横194センチメートル)が、芝居関係者の参詣が多かった江戸下町の有名社寺の場合とは異なり、江戸の郊外であった代々木に存在していたのは珍しいことです。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 絵馬「代々木八幡縁起絵」 区指定有形民族文化財 平成4年(1992)10月1日指定 代々木八幡宮社伝によると、源頼家の家臣、近藤三郎是茂の家人荒井外記智明は、頼家が修善寺で殺害された後に名を「宗友」と改めて代々木に引きこもり、建暦2年(1212)8月15日夢の中で大神から宝珠のような鏡を授かったので源氏の守り神である鶴岡八幡宮の分霊をまつり、小祠を営んだのが代々木八幡宮の創建といわれています。 この絵馬は、その経過を表現したもんで、このような作例は少なく筆致も優美なもんです。天保12年(1841)に奉納された縦139×横186センチメートルの大絵馬です。 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 訣別の碑 この一対の燈篭は、明治42年(1909)、代々木の源(現在の代々木公園)に陸軍練兵場が設けられたとき、移転を余儀なくされた住民がこの地との別れを惜しんで奉納したものである。 訣別の言葉は竿石部分にあり、拝殿に向かって左側には、「大字代々木深町ハ明治40年(1907)11月11日陸軍練兵場ニ指定セラレタリ、常ニ一家ノ如クナル温情深キ住民ハ区々ニ移転スルノ際」・続けて右側には「各々其ノ別ルルヲ惜ミ又字ノ消サラン事ヲ想ヒ、茲ニ燈ヲ納メテ之ヲ紀念トス 明治42年(1909)1月建設 良■拝書」とあり、この下段に奉納者の17名の名前が刻まれている。 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 出世稲荷社 祭礼日・旧暦初午の日 第二次大戦末期の昭和20年(1945)5月25日夜、このあたりは米軍の空襲により大きな被害を受けた。幸い神社は焼け残ったが、周辺は一面焼野原となり、その焼跡には家々で祀っていた稲荷社の祠や神使の狐などが無惨な姿をさらしていた。それらを放置しておくのはもったいないと、有志の人々らが拾い集め、合祀したのがこの稲荷社の最初で戦災の記憶と平和の大切さを偲ぶよすがともなっている。 なお、祭礼日の旧暦初午の日には、さまざまな祈願をこめた紅白の幟の奉納が行なわれる。 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 菅公一千年 歌碑 千とせ経て ますます高しつくしがた みけし(御衣) あふぎし神のみいつは 正三位勲二等子爵 福羽 美静 文化学園の西側、甲州街道から入ったところに銀杏天神社があった。元和3年(1617)勧請、大正院持、社地は127坪あったという。そこには箒銀杏と呼ばれる大樹があり、御祭神の菅原道真公没後1000年を記念して歌碑がつくられた。天神社は明治33年(1900)5月、代々木八幡宮の末社に合祀され、歌碑も移転された。現在も天神社の跡地には小祠があり、この歌にも詠まれた箒銀杏がしげっている。 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 代々木八幡遺跡 区指定史跡 昭和52年(1977)5月26日指定 代々木八幡宮は標高約32メートルの台地上にあって、その境内から石器時代の遺物が発見されていました。 昭和25年(1950)、渋谷区でここを発掘したところ多数の遺物とともに、ロームを浅く掘りくぼめた住居と、その中に掘られた柱穴を発見しました。 ここから出土した加曾利E式土器によって、この住居には約4500年まえに人が住んでいたと推定されます。 渋谷区では、この住居跡にたてられてあった古代住居を復原して、その保存につとめております。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 代々木八幡宮神輿 此の宮神輿は、大正12年(1923)8月、渋谷区新町町会(現代々木3、4丁目)の有志により、千葉県行徳の神輿師の許で造られ、祭礼のたびごとに賑々しく町内を巡行していたが、人口の減少にともない、永久保存を願って昭和37年(1962)9月、代々木八幡宮の宮神輿として奉納された。 関東大震災、東京大空襲の二度の大災害を無事くぐり抜けてきたが、傷みがひどくなったため、平成3年(1991)12月、平成御大典並びに御鎮座780年祭を記念して、氏子崇敬者770名の奉賛(2千万円)により、板橋の東京神輿センターで約70年ぶりに全面的な買いたい修理が行なわれ、面目を一新して今日にいたっている。 平成7年(1995)9月吉日 代々木八幡宮 総代会 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 八幡宮紀念の碑 明治34年(1901)、拝殿の改築が成った際、建立された。顕額は府知事・千家尊福、撰文は神田明神祠官・平田盛胤、執筆は子爵・福羽美静(ただし、福羽翁は高齢で病気がちであったため、門弟の野村伝四郎が代筆、裏面は義弟の福羽良曠)による。以下全文。 「これの處の底つ岩根に宮柱太しき建て 天津御空に千木高知り鎮り座します村社若宮八幡宮はしも順徳天皇の御字建暦二年(1212)九月二十三日といふに この地に往せし荒井宗友の霊夢により勧請し奉りし大神なり そもこの宗友は頼家将軍に仕へし者の家人なりしかばそのかみ鎌倉に在りて鶴岡八幡宮は産土の神におはしまししより ここに退隠したる後も朝夕の拝禮懈怠なかりき 然るに建暦二年(1212)八月十五日の夜 大神の御さとしによりて 贅珠の如き鏡を感得しければ 宗友の喜び限■■■■の地の■■を披きて小祠を営み 同年九月二十三日始めて御祭を行ひに■これぞこの御社の起原にして毎年大祭を九月二十三日に行ふもこの故なりけり 後 徳川幕府の頃となりては神仏混清の風なりしかは別当を贅珠山福泉寺皆明院と称し 社地八十坪ばかりなりしが 明治維新の後に五段五畝二十四歩と改定せられぬ」 所在地 渋谷区代々木5-2-1 (福泉寺) 庚申塔 庚申の信仰は中国の道教思想に基づくもので、江戸時代盛んになり、村の辻などに庚申供養塔が建てられました。 庚申信仰は、60日ごとにめぐり来る庚申の夜、眠り込んだ人の体内から三尸と呼ばれる虫が出て天帝にその人の罪過を報告し、罰が下されるというもので、寝てはいけないと信じられていました。 庚申堂や当番の人の家に集まった村人たちは、一晩中勤行をして夜明けを待ちました。その仲間を庚申講と呼んだのです。この人びとによって庚申塔は建立されました。庚申塔の多くは、青面金剛像が刻まれ、その下に三猿が彫られています。 ここにある庚申塔の年記をみると、宝永6年(1790)、宝暦5年(1755)、寛政6年(1794)などと刻まれています。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区代々木神園町 東京都立 代々木公園 ホームページ ⇒ http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index039.html 代々木公園内には『代々木公園沿革碑』、『十四烈士の碑』、『日本航空発始の地記念碑』、『徳川好敏像』、『日野熊蔵像』、『オリンピック記念宿舎と見本園』、『しあわせの像』、『彫刻 ケツァルコアトゥルの化身「羽毛のある蛇」』、『昭憲皇太后葬場殿跡碑』、『国土緑化の碑』があります。 所在地 渋谷区代々木神園町 (代々木公園) しあわせの像 放送は人類英知の所産であり社会、個人の生活へ空からしあわせをふりそそぐ文化の慈雨である 國民共有の財産としてその連用を過たず事業発展に尽瘁された先達の功労を汎く世に顕わさんがため恰し電通は創業71周年を迎えたのを機に微哀を表してここにしあわせの像を建設し永く鑚仰の誠を捧げんとするものである 西暦1971年 昭和46年11月15日 株式会社電通 放送功労者 岩原謙三 日本放送協会会長 1863-1936 吉田秀雄 株式会社電通社長 1903-1963 正力松太郎 日本テレビ放送網株式会社社長 1885-1969 鹿倉吉次 株式会社東京放送社長 1885-1969 1971年放送功労者選考委員会選 阿部謙夫 北海道放送株式会社社長 1894-1972 足立正 社団法人日本民間放送連盟会長 株式会社東京放送社長 1883-1973 松方三郎 社団法人共同通信社専務理事 1899-1973 1976年放送香料者選考委員会選 今道潤三 社団法人日本民間放送連盟会長 株式会社東京放送会長 1900-1979 高田元三郎 放送番組向上委員会委員長 毎日新聞社代表取締役 1894-1979 高橋信三 株式会社毎日放送会長 1901-1980 金子秀三 アール・ケー・ビー毎日放送株式会社社長 1900-1980 1981年放送功労者選考委員会選 石井光次郎 社団法人全日本広告連盟会長 朝日放送株式会社社長 1889-1981 原安三郎 社団法人日本放送連合会会長 1884-1982 前田義徳 日本放送協会会長 1906-1983 赤尾好夫 株式会社文化放送会長 全国朝日放送株式会社会長 1907-1983 1986年放送功労者選考委員会選 山西由之 社団法人日本民間放送連盟会長 株式会社東京放送社長 1922-1989 小嶋源作 中部日本放送株式会社会長 1915-1989 諏訪博 株式会社東京放送会長 1915-1989 原清 朝日放送株式会社会長 1907-1990 鹿内信隆 フジサンケイグループ議長 1911-1990 1991年放送功労者選考委員会選 野村幸祐 山口放送株式会社会長 1902-1991 務臺光雄 読売テレビ放送株式会社 1896-1991 松前重義 株式会社エフエム東京会長 1901-1991 石原俊輝 信越放送株式会社社長 1913-1993 深水六郎 株式会社熊本放送会長 1901-1995 1996年放送功労者選考委員会選 高木一見 株式会社毎日放送会長 1919-1997 浅野賢澄 株式会社フジテレイジョン会長 1916-1997 田部長右衛門 山陰中央テレビジョン放送株式会社社長 1938-1999 小林與三次 日本テレビ放送網株式会社会長 1913-1999 鈴木充 東海テレビ放送株式会社会長 1908-2000 高木盛久 日本テレビ放送網株式会社社長 1918-2000 2001年放送功労者選考委員会選 青山行雄 読売テレビ放送株式会社社長 1921-2002 坂本朝一 日本放送協会会長 1917-2003 磯崎洋三 株式会社東京放送社長 1933-2004 高橋一夫 中部日本放送株式会社社長 1923-2006 若松信重 東海テレビ放送株式会社会長 1923-2005 2006年放送功労者選考委員会選 建設者 株式会社電通社長 日比野恒次 制作者 菊池一雄 設計者 谷口吉郎 所在地 渋谷区代々木神園町 (代々木公園) 国土緑化の碑 大戦は国土の荒廃と森林緑地の喪失を招き、災害を続発し水源を枯渇せしめ生活の潤いを奪った。有志はその参状の一刻も放置できないことを見、相はかって国土緑化推進委員会を結成してここに20年、幣原喜重郎氏以来歴代の衆議院議員を委員長に、故村上竜太郎氏を始めとする多数関係者は、国民の繁栄は緑とともにあるという理念のもとに、全国土の緑化を提唱して献身的努力を重ねてきた。 山に木を植え都市を緑で包むこの国民運動は全国にわたって着々と成果をあげ、現に明治百年記念事業として国が明治の森国民の森の造成を進めているほか、郷土の森県民の森等が各地に育ちつつある。いま東京都が代々木の地に森林公園を開設するのを機とし、その一角を得てこの碑を建てるのは、顧みて国土緑化運動の由来を記念し、その力強い発展をさらに将来に期するためである。 昭和43年(1968)11月 国土緑化推進委員会 所在地 渋谷区代々木神園町 (代々木公園) 十四烈士の碑 十四烈士自刃当時 当地は代々木練兵場であったが米占領軍は進駐直後にこれを接収将校宿舎ワシントンハイツを建設日本人の立入りを禁止した 昭和27年(1952)講和条約が発効するや景山正治塾長はこの自刃現場の返還を求めたが交渉は難航した しかし諸方諸子氏の献身的努力により昭和33年(1958)に到り建立する碑の高さ大きさに制限を付して漸く許可となり翌34年(1959)この碑が建立された 昭和39年(1964)東京オリンピックに当りこの全域はその選手村として米軍より日本に返還され其の終了後東京とは代々木公園を造成 開園 漸く日本国民が自由に参拝出来るやうになった 当地は以上の如き経緯を有するが建碑に当っては米軍進駐前に採取した血染の砂が碑の下に納められている 所在地 渋谷区代々木神園町 (代々木公園) 代々木公園沿革碑 この附近は、武蔵野特有の台地で、昔は雑木林の散在する景色のよい所であったといわれ、近世になり、幕府や諸社寺の領地となりました。 明治時代の末には、代々木練兵場となり、演習などが行われていましたが、明治20年(1890)米軍の宿舎用地として接収され、ワシントンハイツと呼ばれました。第18回オリンピック東京大会開催のとき、日本に返還され選手村となり、終了後は森林公園として整備されました。 明治42年(1909) 代々木練兵場設置 明治43年(1910) 日本で最初の試験飛行に成功 昭和20年(1945) 第18回オリンピック東京大会選手村開設 昭和39年(1964) 代々木公園造成に着手 昭和46年(1971) 代々木公園完成 東京都 所在地 渋谷区代々木神園町 (代々木公園) 日野熊蔵像 限りなき大空 限りある人生 限りなき代々の祖國のため 限りある現世の定命をささぐ 翁は熊本の産 豪放磊■英仏独語に通じ数理に秀で選ばれて独逸に飛行機操縦を習得し1910年12月19日此地に於て発動機の不調を克服してグラーデ式を駆り一分間1000米の飛行をした不屈の精神は次代の青少年の範とすべきである 昭和41年(1966)4月23日 松野 頼三 飛行機唱歌 明治44年(1911)6月17日作 作詞 日野熊蔵 作曲 岡野貞一 勇み立つたる推進機の 響きは高し音高し 時こえて よけれ放てよと ■手を挙ぐる一刹那 御國を守るますらをよ 勲立つる戦場は かの大空にありと知れ かの大空にありと知れ 平成17年(1942)4月17日 日本航空発始之地顕彰保存会 航空碑奉賛同人会 |
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