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東京都渋谷区の歴史
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所在地 渋谷区恵比寿1-18-1 (台雲寺)

  敵・味方軍人の供養碑

 明治27年(1894)、明治28年(1895)の日清戦役に従軍し、戦没した日本軍人の慰霊碑とともに、相手側の清国軍人の霊を弔った碑が明治30年(1897)にたてられてて、当時の人日との博愛精神を知ることができます
 東京都渋谷区教育委員会
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所在地 渋谷区広尾1-5-18

日蓮宗
 廣榮山 法雲寺



 法雲寺境内には『白鴎観音堂』、『白鴎観世音菩薩由来碑』があります。

 


所在地 渋谷区広尾1-5-18 (法雲寺)

   白鴎観音


 この観音像は大正11年(1922)東京美術学校出身、日辰無審査の服部仁郎氏の作で楠木を用い、また台座は前田文六氏の作であります。
 本観音像は服部氏が昭和16年(1941)に、戦争が1日も早く終わるように祈りをこめて制作に着手し、昭和18年(1943)10月に完成開眼あされました。昭和40年(1965)、時あたかも周旋20周年を機に、同氏の深い想いにより、社団法人白鴎遺族会に寄贈を賜りましたものです。同会は法雲寺本堂に安置し毎年6月に慰霊法要を続けてまいりました。
 白鴎遺族会は、海軍飛行科予備学生、予備生徒出身の戦没者の遺族と生存同期生によって昭和21年(1946)に結成され、戦没者の慰霊と遺家族の援護を継続している団体であります。海軍予備学生、予備生徒とは旧制大学、高等学校、専門学校の卒業生、修了者から採用され、飛行科は1期より16期の予備学生と、1期より3期の予備生徒まで、総数は1万5149名でありましたが、大空の戦いに2485名が戦死されました。その中で神風特別攻撃隊として戦死した士官搭乗員769名の内には実に658名の予備学生・生徒出身が、雲流るる果てに散華しました。
 特に13期は1616名が戦死し、動機の3分の1を失いました。13期出身である法雲寺住職村井泰遠師は友の冥福を祈り、先々の人々が白鴎観音を、至純の志をもって困難に殉じた若き学徒の化身として仰ぎ、彼らが最も願っていた永遠の平和を共に祈って頂くため、観音堂を建立しました。
 平成10年(1998)10月18日


所在地 渋谷区広尾1-5-18 (法雲寺)

  白鴎観世音菩薩祭祀由来碑

祭祀奉ル観世音菩薩
 白鴎観世音菩薩ト称シ奉ル 去ル昭和18年(1943)大東亜戦末期ニ至ルニ 海軍飛行機搭乗員下級指揮官補充スル為 当時大学及ビ高専在学中又ハ予定者ヲ海軍飛行予備学生トシテ大量ニ募集スル所トナル 学生ハ陸海何レノ隊ニ入隊スルモ 生存ハ保証スル能ワズ 而レバ海軍飛行機搭乗員トシ 敢然トシテ南海ノ空ニ散華スルヲ願ッテ 13期飛行予備学生トシテ土浦三重航空隊ニ志願入隊ス 当時吾人等ノ両親ハ20数年 学問教育ニ最高学府ニ勉学ニ励ムヲ願ヒ 将来ニ夢ヲ託シテ己ガ身ヲ削リテ進学セシム 又吾人等モ此レニ応エテ 明日ノ青春ヲ両親家族ト共ニ謳歌セントスルニ 戦雲愈々我レニ利アラズ 全テヲ放擲シテ 国家ノ干城タラント勇躍実戦遂行ス 昭和20年(1945)ニ至リテ予備下級士官ハ特別攻撃隊員トシ日ヲ追ッテ出撃ス 哀レナル哉 青春ヲ書籍ニテ知ルモ其ノ身ニ知ラズ 将来 栄有ル国ノ山河ヲ想イテ南海ニ散ル 同期ノ霊ヲ永遠ニ忘却スル事無ク此処ニ小堂宇ヲ造立 白鴎観世音菩薩ヲ勧請シ 英霊ノ犠牲的栄光ノ風化ヲ惜シミテ 予備学生同期ノ縁ヲ以テ 当山29世泰遠発願人トナリ
 法雲寺基金及ビ故村井フジエ篤志ヲ得テ 当山第30世浄貴ニ依リ開眼ス 当山参詣ノ砌リ
 平成ノ今日アルワ一重ニ英霊ノ功績誠ニ大也コノ功薫ヲ讃エテ香華献ズルヲ願フ 依ッテ英霊鎮魂ノ一塵徳海ノ一滴ニ謝シ奉ル      敬白


所在地 渋谷区広尾5-1-21

臨済宗大徳寺派
 瑞泉山 霊泉院




所在地 渋谷区広尾5-1-21

臨済宗大徳寺派
 妙高山 東江寺

 


所在地 渋谷区広尾5-2-29

浄土真宗本願寺派
 蔵田山 上宮寺



 


所在地 渋谷区渋谷3

  徒歩橋かちばし

 


所在地 渋谷区渋谷3

  金王橋こんのうばし

 


所在地 渋谷区渋谷3

  稲荷橋いなりばし

 


所在地 渋谷区渋谷1・2

  宮益橋跡
 
下の写真は、渋谷駅北側、現在の宮下公園付近を流れる渋谷川です。遠方に見える橋は宮益橋で、その後ろの建物は、川の上に建つ東横百貨店(現東急百貨店東横店)です。橋の右手には、かつての宇田川が流れ込んでいるのも見えます。渋谷川上流は昭和38年(1963)に暗渠あんきょになりましたが、写真にみえる区間は、少し遅れた45年に暗渠になりました。


                 昭和32年 渋谷川と宮益橋

所在地 渋谷区広尾5-1-21 (霊泉院)

  板碑
 板碑は鎌倉時代から江戸時代のはじめごろの間に作られました。関東ではおもに、秩父産の緑泥片岩を原材料として造られた典型的な板状塔婆です。板碑の一般的な特徴は、頭部を山形にし、二段の切り込み(二条線)の下に本尊としての仏像または梵字の種子が彫られ、造立年代・願文・偈文などが刻まれている点です。
 この板碑は、上部の横線の下に天蓋と阿弥陀の種子、その下に蓮台を刻み、明徳5年(1394)5月29日という造立年月日と、供養の文字が彫りこまれています。
 文書史料の少ない渋谷区の中世史研究にとって、この板碑は欠くことのできない大切な史料です。
 渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区渋谷1-12-16

  宮益御岳神社





 宮益御岳神社境内には『明治天皇御嶽神社御小休所阯碑』、『不動尊』があります。


所在地 渋谷区渋谷1-12-16 (宮益御岳神社)

  不動尊
 当 不動尊石像は、延宝9年(1681)3月6日建立され、古くから炙り不動と称せられ、苦しみや疫病などを香煙で炙りだすと伝えられ、信仰厚い不動尊として、近郷近在に知られております。また、一部には、札炙り不動として商人衆、金融関係の方々がお札を炙り、倍々に富を殖やすともいわれ、隠れた人気を呼んでいます。




所在地 渋谷区渋谷1-12-16 (宮益御岳神社)

  明治天皇御嶽神社御小休所阯碑
 ここは、明治3年(1870)4月17日、明治天皇駒場野の練兵天覧御幸の際、御往復共、当御嶽神社拝殿を御座所に当てられ、御小休所となった所であります。
 当日は、午前5時御乗馬にて、皇居を御出発され、外桜円より赤坂をお通りになり、吉井友■邸で御小休、更に御板輿に御移乗になり、当御嶽神社に於て再び御小休、御召還になり、御乗馬にて騎馬野練兵場に向われました。
 午前8時駒場野御着、午前9時燈火(花火)一発を合図に、練兵を御覧になり午後3に終了致しました。午後4時、号砲一声還御となり、前軍より次第に列を進められ、御嶽神社、吉井邸にて各々御小休され、午後6時還幸になりました。
 翌18日、明治天皇の思召により、当神社に鳥居及び駒寄せの御奉納がありました。
 昭和14年(1939)2月、明治天皇聖蹟記念碑を建立しました。
天皇陛下御社位60年奉祝記念
 昭和60年(1985)11月3日建


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