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東京都渋谷区の歴史
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所在地 渋谷区東4-10-28 (国学院大学)

この顕彰碑は、桑原芳樹翁の遺徳を哀慕する人々の浄財をもって、10年祭を迎えた昭和27年(1952)10月23日、石川岩吉理事長・学長の撰文により除幕。翁は文久元年(1861)12月20日筑前宗像郡吉田村(現福岡県宗像郡玄海町吉田)に生まれ、旧姓小林、幼名芳三郎、のち芳樹。明治7年(1874)宗像神社に出仕。明治14年(1881)上京、神道事務局生徒寮に入り、翌明治15年(1882)皇典講究所開所に伴い入学、幹事松野勇雄の薫陶に浴す。明治19年(1886)皇典講究所卒業。翌明治20年(1887)山形県皇典講究所分所教授。明治23年(1890)皇典講究所書記、『古事類苑』編纂主任。明治26年(1893)駿河浅間神社宮司に転出。明治28年(1895)三嶋神社宮司。明治29年(1896)伊勢神宮禰宜、神宮司庁庶務課長。明治30年(1897)神宮皇学館幹事兼務、三重県皇典講究分所理事・講師、『古事類苑』編纂所理事。明治31年(1898)権宮司、神宮皇学館官長。明治33年(1900)神宮官制改正により少宮司。明治36年(1903)神宮皇学館官庁兼務。明治42年(1909)第57回神宮式年遷宮式に奉仕。神苑整備、神宮皇学館の官学昇格等諸事業を推進。明治44年(1911)大神神社宮司兼橿原神宮宮司。大正3年(1914)橿原神宮外苑拡張事業を指揮して勅祭社御待遇を実現。大正6年(1917)皇典講究所幹事長。翌大正7年(1918)専務理事に就任し、芳賀学長を補佐して大学令大学昇格(大正9年〔1920〕4月15日認可)と渋谷校地全学移転(大正12年〔1923〕)を指揮。傍ら自邸に学生寮「有為寮=ゆういりょう」を設け、樋口清之(教授、文学博士)ら子弟訓育に尽す。昭和4年(1929)1月上田万年(うえだかずとし)学長辞任に伴い学長事務取扱。3月加茂別雷神社宮司。昭和5年(1930)熱田神宮宮司、昭和8年(1933)井伊谷宮宮司及び貴船神社宮司(昭和10年〔1935〕)兼務、熱田神宮社殿修造事業に尽す。昭和14年(1939 )内務省神社局参与。昭和16年(1941)神祇院参与。昭和18年(1943)3月21日、東京・渋谷区松涛25番地の自宅で逝去、83歳。谷中墓地に眠る。神社調査会、全国神職会、大日本武徳会等の評議員、協議員、顧問を兼ねた。手前のやまももは30年祭記念樹。
 (校史資料課)



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