東京都渋谷区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 渋谷区広尾5-1-21 臨済宗大徳寺派 瑞泉山 祥雲寺 宗祖 栄西禅師 本尊 釈迦牟尼仏 境内には『大名墓地群』、『黒田長政墓』、『岡本玄冶墓』、『常磐津文字太夫墓』、『曲直瀬流一門医師の墓』、『鼠塚』、『大給恒墓』、『有馬頼寧墓』があります。 PR 所在地 渋谷区広尾5-1-21 (祥雲寺) 東京都指定旧跡 岡本玄冶墓 昭和14年(1939)6月指定 岡本玄治おかもとげんやは、江戸時代初期の医家。初名は宗什、のち諸品と改める。玄治は通称。天正15年(1587)京都に生まれた。16歳の時曲直瀬玄朔の門に入って医学を学び、玄朔門下第一の高弟と称された。慶長年間(1596~1615)伏見城で徳川家康に拝謁し、元和4年(1618)法眼に叙せられ、元和9年(1623)将軍秀忠に召されてその侍医となり、たびたびその病用に侍して効を収めた。寛永5年(1628)法印に叙せられ、啓迪院の称号を賜った。寛永10年(1633)・寛永14年(1637)には将軍家光の病を直し、千石の領地を得るにいたる。常に京都と江戸を往復し、元和9年(1623)日本橋人形町に屋敷を拝領した。幕末の嘉永6年(1853)に大当たりをとった歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛」の舞台「源氏店」で有名になった玄冶店の名の起こりをなした。正保2年(1645)4月20日59歳で死去。著書に『燈火集』『玄冶配剤解』『玄冶方考』『通俗医海腰舟』『傷寒衆方規矩』などがある。 平成13年(2001)3月31日設置 東京都教育委員会 所在地 渋谷区広尾5-1-21 (祥雲寺) 曲直瀬流一門医師の墓 墓地のほぼ中央に日本に医術を最高の水準まで導き、世界で最初といわれるカルテを残した曲直瀬玄朔と一門の墓が並んでいます。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区広尾5-1-21 (祥雲寺) 黒田長政墓 豊臣秀吉・徳川家康の天下統一に貢献した、黒田長政(福岡藩五十二万余石初代藩主)は、京都紫野大徳寺の竜岳和尚に深く帰依していました。元和9年(1623)に長政が没すると嫡子忠之は、竜岳を開山として祥雲寺を建立しました。 この黒田長政の墓は、墓標形として建てられた雄大なもので、墓地の右手奥にあります。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区広尾5-1-21 (祥雲寺) 文化人の墓 祥雲寺墓地の中ほどの左手に、宝生流家元代々の墓があり、その向かい側に、まんじゅう型笠付きの常盤津節の開祖常盤津文字太夫の墓があります。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区広尾5-1-21 (祥雲寺) 鼠塚 墓地入口の右手に見える大きな石碑は、明治32年(1899)から数年間ペストが流行したとき、予防のために殺された鼠の霊を供養して明治35年(1902)に建てられた珍しい動物慰霊碑です。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区広尾5-1-21 (祥雲寺) 大給恒墓おぎゅうゆずる 大給松平氏は、松平一門として徳川幕府に仕えました。その本拠は三河ですが、竜岡城(現長野県佐久郡臼田町。国指定史跡)は、恒が造った江戸時代の最後の城郭建築で、函館の五稜郭とともに我が国には珍しい洋式の城です。 恒は明治維新後に姓を大給と改め、新政府の要職に就きました。明治11年(1878)には、賞勲局副総裁となり、明治28年(1895)には、総裁となりました。日本の勲章制度の礎を築くとともに、彼が考案した日本古来の伝統に基づく勲章のデザインは現在も使われています。 また、明治10年(1877)5月に、佐野常民らと日本赤十字社の前身である博愛社を創設し、常民とともに初代副総長となり、日本の医療・福祉制度の整備に努めました。 大給恒は、この説明板の左手奥、祥雲寺山内の墓地にあり、大きな墓碑には「枢密院顧問官 正二位勲一等 伯爵 大給恒墓 明治四十三年一月六日甍」と刻まれています。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区広尾5-1-21 (祥雲寺) 大名墓地群 この祥雲寺の檀家には武家が多かったため、福岡藩主黒田家をはじめとして福岡藩の分家秋月藩主黒田家・久留米藩主有馬家・吹上藩主有馬家・柳本藩主織田家・岡部藩主安倍家・小野藩主一柳家・狭山藩主北條家・園部藩主小出家など諸大名の墓地群があります。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区恵比寿1-22 山下伏見稲荷神社 そもそもこの山下伏見稲荷大明神は、明治20年(1887)当時まだ田畑山林の広がっていたこの地に、五穀豊穣の守護神として村民の信仰の拠りどころとなったものであります。 その後、星移り物変りいっとはなしに田畑山林は商店街となり、その間数度に渉る近火にも類焼を蒙ることなく、商売繁昌の大明神として、その縁日にはゆかりの商人の出店も数百に及び繁昌を極めたものであります。 その後、昭和20年(1945)5月24日の東京空襲で戦災に遭いましたが、昭和21年(1946)7月信仰心の厚い氏子多数、特に故長島国治氏の御厚志により、この地に再建造営されました。さらにその後30年を経て、その間の熱心な信者のお守りにも拘らず社殿の腐食甚だしく、本年多くの信者の方々の御奉納によりここに新たに改築を見た次第であります。 昭和51年(1976)3月 山下伏見稲荷講 所在地 渋谷区恵比寿2-32 豊沢貝塚 縄文時代を年代区分すると、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期にわけられます。 渋谷区内の遺跡の多くは、このうち中期に属するものであり、晩期の遺跡はこのあたりだけから発見されています。 この一帯は、渋谷区内でも最も低い台地で、遺跡はその斜面にあります。 この地域には、貝塚のほかに泥炭層があることも知られており、そこから後期の加曽利B式、安行Ⅱ式と晩期の安行Ⅲ式、亀ヶ岡式の土器片や石器などが発見されました。 都市開発が早くから行われてきた渋谷区内では、すでに大部分の遺跡が失われてしまったので、この遺跡は大変貴重な存在になっています。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区恵比寿3-35 岡田三郎助終焉の地 岡田三郎助は明治2年(1869)に佐賀藩に生まれ、明治41年頃、ここに移り住みました。画風は黒田清輝の「天真道場」の影響をうけ、「北国の五月頃」をはじめ数多くの名作を描き続けましたが、昭和14年(1939)71歳で亡くなりました。 平成8年(1996)度 渋谷区居行く委員会 所在地 渋谷区恵比寿4-15-1 (恵比寿クレセントSAKI) 中田喜直住居跡 作曲家中田喜直は、大正12年(1923)8月1日、渋谷町字欠塚(現恵比寿4丁目)に誕生し、加計塚小学校に入学しました。代表作に「夏の思い出」「めだかの学校」「かわいいかくれんぼ」「ちいさい秋みつけた」「雪の降る街を」などがあり、日本人の心に刻まれた名曲は、誰もが一度は口ずさんだことがある童謡です。中田家は音楽一家で、父の章は日本ではじめてパイプ・オルガンを演奏し、「早春賦」を作曲したことで有名です。 平成21年(2009)度 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区渋谷3-14 鎌倉道 この細い道は、古くから鎌倉道と呼ばれ、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来、東日本の各地に設けられた軍道のひとつといわれています。 ここから西へ行くと、渋谷川を渡って台地をのぼり、猿楽塚の二つの築山の間を抜けて目黒川にくだり、さらに丸子の渡しを通って神奈川県にはいります。また、東に進むと、青山学院のわきを通り、隠田橋を渡って代々木八幡に達し、さらに大宮八幡に向かっていたといわれています。 大永4年(1524)に、相模の北条軍がこの鎌倉道を通って江戸に攻めのぼり、その時の戦火が渋谷地域にも及び渋谷館(金王八幡宮・東福寺周辺)が焼失したと伝えられます。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区恵比寿4-21 (区立加計塚小学校) 欠塚の碑 昔、この付近一帯に小円墳群がありその一つが欫けていたことから、このあたりを欫塚と呼ばれたと伝えられる。 欫塚の名は江戸初期、下渋谷村小学欫塚として存在した。(新篇武蔵風土寄稿による) 本校創立にあたり、時の渋谷町長佐々木基氏、初代校長野口周作氏が合議の上この史実から校名を、東京府豊多摩郡加計塚尋常小学校と決定したものである。 石碑「欫塚」は、本校創設の際西側敷地内にあったものが、伊達町四十九番地先に移され、後、昭和22年(1947)夏この地に当時の職員が安置したものである。作者年代等不詳である。 昭和54年(1979)11月10日 加計塚小学校旧職員有志 所在地 渋谷区恵比寿西1-11 恵比寿神社 御祭神 国常立命 豊雲野神 角材神 意富斗能地神 伊邪那岐命 伊邪那美命 事代主命(エビス様) 恵比寿神社は文献によると大昔の頃より天津神社(大六天様)と称して家内安全、無病息災、五穀豊穣の神々として広く住民に崇め祭られて参りました。戦後区画整理により記念事業として現在地に社殿を新築致し、これを契機に商売繁昌、縁結びの神、事代主命(エビス様)を合祀し社名を恵比寿神社と改めました。 大祭日 10月20日 宮司 田村顕雄 恵比寿神社総代会 恵比寿神社崇敬会 所在地 渋谷区恵比寿西1-23-1 (区立長谷戸小学校) 夕やけこやけ碑(夕焼け小焼け碑・ゆうやけこやけ碑) 作詞 中村雨紅(中村雨虹) 作曲 草川信 草川信先生は大正6年(1917)3月に音楽学校を卒業、同大正6年4月より長谷戸小学校の若き音楽教師として着任。昭和2年(1927)4月までの十余年勤務されました。 その間、児童の音楽教育に情熱を傾けられ、本校児童の音楽的才能の啓発・向上に尽力、幾多の功績を残されました。 さらに本校在職中に児童の愛唱歌をつぎつぎに作曲・発表。 子どもたちはこの歌を口ずさみながら成長しました。ここに創立75周年を記念して草川先生を偲びこの顕彰碑を建立するものであります。 作曲・作品 「ゆりかごの歌」「どこかで春が」「風」「夕焼け小焼け」「春の歌」「風鈴」「緑のそよ風」「汽車ポッポ」 他 昭和62年(1987)11月吉日 記念碑建立実行委員会 長谷戸小学校 同窓会 長谷戸小学校長 池田成男 謹書 所在地 渋谷区広尾5-7 (区立広尾公園) 都電車庫跡 このあたりは、都電の広尾電車営業所の跡で車庫があったところです。 大正7年8月に開設され、昭和44年(1969)10月に廃止されました。 民営の鉄道馬車に始まり明治44年(1911)に市営化した東京市電の「天現寺橋」駅があって、青山方面から古川沿いに走る路線が通り、また、恵比寿方面への始発点でもありました。さらに、大正13年(1924)には玉川電気鉄道の路線が渋谷からこの「天現寺橋」まで開通しています。 この玉川電気鉄道の広尾線(渋谷・天現寺橋間)及び中目黒線(渋谷橋・中目黒間)は、昭和13年(1938)東京市に買収され、昭和18年(1943)には都政の施行により市電の呼び名は都電に変わりました。 その後、都電は、交通渋滞の誘因ともなったことから次々に撤去され、現在荒川線(早稲田・三ノ輪橋間)の一路線のみ運行されています。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区神宮前5-5 (表参道コート) 大山史前学研究所と大山柏邸跡 昭和20年(1945)5月の大空襲によって焼失するまで、この場所には大山柏(元公爵・文学博士)の邸宅と主催する大山史前学研究所がありました。 大山柏(1889~1969) 柏は、明治の元勲大山巖公爵の次男として明治22年(1889)6月、東京に生まれ、兄の高が早世したことにより家督を継ぎました。軍人の家柄に生をうけた柏は、兄亡きのち、軍人の道を歩むことになります。大正12年(1923)に近代戦史研究の名目でヨーロッパに留学し、あわせて考古学の研究も行っています。 神奈川県勝坂遺跡出土土器 大正13年(1924)に帰国した柏は、自邸内に史前研究室(のちに大山史前学研究所)を設立し、史前研究会(のちに史前学会)を組織しました。大山史前学研究所は、遺跡の調査研究、雑誌の刊行、出土品の展示、約一万冊にもおよぶ蔵書の閲覧など、現在の国公立研究所にも劣らない機能を持ち、戦後の日本考古学の基礎を築いたばかりでなく、そこに集った多くの若い研究者は、現在の日本考古学の躍進に寄与しています。 研究所蔵 欧州旧石器 戦後の柏は、西那須の別荘に移り住み、昭和44年(1969)8月20日に他界しました。 渋谷区教育委員会 甲野勇 大山史前学研究所の由来と意義 大山史前学研究所は1929年(昭和4年)に公爵大山柏によって設立された私設の考古学研究所である。大山は1923年(大正12年)にドイツに留学し、ベルリン大学で史前学を学び、帰国後邸内に私財を投じて大山史前学研究所を開設した。その母体は邸内に開設されていた史前研究室である。さらに史前学会を組織して日本の新石器時代を中心とした学術雑誌「史前学雑誌」を刊行するとともに100ヶ所以上の縄文時代の遺跡を調査し、その成果を次々に学界に発表した。 宮坂光次 大山らの発掘した主な遺跡には青森県是川遺跡・宮城県沼津貝塚・茨城県広畑貝塚・上高津貝塚・千葉県加曽利貝塚・遠部台遺跡・埼玉県真福寺貝塚・神奈川県子母口貝塚・勝坂遺跡などがある。 池上啓介 研究所には甲野勇、宮坂光次、池上啓介、竹下次作、大給貴尹らの所員がおり、研究所の発掘調査や報告書の作成と史前学界の活動を支えた。1943年(昭和18年)には貴族院議員であった大山柏も北海道根室・室蘭守備隊に出征し、研究所は閉鎖状態となり、1945年(昭和20年)5月25日の空襲によって多くの貴重な文献や資料は邸宅や研究所とともに焼失した。 竹下次作 しかし、戦前の皇国史観による歴史学への弾圧が続くなかで、大山柏の研究は純粋な科学的精神によって貫徹され、かつ今日の旧石器時代、縄文時代の研究においても重要なものが多く、日本考古学の歴史のなかに占める意義はきわめて大きいものがある。 2001年8月20日 史学博士 阿部芳郎 大給尹 |
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永山
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