東京都渋谷区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 渋谷区渋谷1-25 渋谷川 この緑道の下には、渋谷川が流れています。この川はもともと新宿御苑や明治神宮の池を水源としていましたが、玉川上水が完成してからは、その余水をも流すようになりました。 昔、上流は余水川、隠田川などとも呼ばれ、下流の天現寺橋から先は古川と名を変えて、今も東京湾に注いでいます。 清らかな水が流れていたころには、鮎や鰻などもとれ、また渋谷川とその支流には、いくつも水車がかかっていました。葛飾北斎が描いた富嶽三十六景にある「隠田の水車」もそのひとつでした。また灌漑用水としても利用されるなど、付近の人々の生活に深いかかわりをもっていました。 今では、稲荷橋(JR渋谷駅の南端)から上流は、すべて暗渠になっています。 渋谷区教育委員会 昭和26年(1951)東横百貨店から見た原宿方面 写真に見える線路の左側遠方、現在の代々木公園のある場所には、ワシントンハイツ、その手前にはかつての渋谷区役所の建物が見えます。渋谷区役所は昭和40年(1965)に現在の場所に移りました。もとの区役所のあった場所は、今は電力館になっています。右に流れる川は暗きょになる前の渋谷川で、川と線路の間の空き地は、のちに宮下公園となります。渋谷川は写真手前で宇田川と合流しているのがわかります。 明治34年(1901)渋谷川と宮益橋 写真は明治時代の渋谷川の様子です。中央の橋は宮益橋といい、左へゆくと道玄坂、右にゆくと宮益坂になります。写真の位置のすぐ下流に、かつては水車が回っていました。川岸にあった渋谷学校(のちの渋谷小学校)の運営は、当初、この水車の営業利益でまかなわれていたといいます。 PR 所在地 渋谷区渋谷2 金王坂 明治、大正、昭和と波乱万丈の家庭を経て市区改正、町名変更に伴い先輩諸氏の築かれた幾多の功績をたたえ、由緒在る金王の伊t名を保存し、ここに金王坂と命名する。 昭和54年(1979)5月吉日建立 渋谷駅東口町会 渋谷二丁目町会 渋谷第一町会 渋谷宮益町会 所在地 渋谷区初台1-52-1 白水学校跡はくすいがっこうあと 明治12年(1879)、水上忠蔵がこの場所に白水分校という私立の小学校を設立しました。 忠蔵は、明治維新後に東京市内から代々木村に移り住んだ教育家で、これより6ヶ月前に白水学校の本校を和泉村(杉並区)に開校しています。 当時の白水分校には、尋常科と簡易科があり、尋常科では主として漢文・数学・習字を教授し、簡易科では毎日通学できない児童のために、各科目を速習方法で教授しました。また簡易科には、農閑期だけ通学する児童や、裁縫・礼儀作法を習うために通学する女児がたくさんいたのです。 明治15年(1882)2月、白水学校を代々木・幡ヶ谷連合の村立として幡代小学校と改称し、明治18年(1885)11月、西側に隣接する場所に新校舎を建築して、移転をしました。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区神宮前4-9-5 (オカニワ表参道ビル) 徳富蘆花住居跡 徳富蘆花は、明治33年(1900)10月に、逗子からここに移ってきました。明治38年(1905)12月再び逗子に移るまでの間に「思出の記」を完成させ、また「黒潮」「慈悲心鳥」「霜枯日記」などの作品を次々に発表しました。 平成17年(2005)度 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区代々木3-23-3 箒銀杏ほうきいちょう この大きな銀杏の木を少しはなれた所から見ると、箒を逆さにたてたように見えるところから、箒銀杏と呼ぶれてきております。 樹齢は約200年と推定されますが、近くを流れていた玉川上水によって育てられてきたと考えられます。 かつて渋谷区内には名のついた巨木、銘木が数多くありましたが、都市化と戦災によって枯れてしまい、初代のものはこの箒銀杏だけとなってしまいました。 この木にちなむ特別の伝説は伝えられておりませんが、根本にある天満宮の小祠から、この近くを流れていた玉川上水に架けられた橋を天神橋と名付けました。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区代々木3-29先 玉川上水跡 ここには、かつて神田上水とともに江戸の二大上水と呼ばれた玉川上水が流れていました。現在は暗渠となり、当時の面影を偲ぶことはできませんが、各所に残る橋の欄干は玉川上水の名残です。 江戸時代初期、江戸の住民は神田上水と赤坂溜池の水を飲料水として利用していましたが、江戸市中の発展につれ水不足をきたしました。そこで、承応元年(1652)に玉川上水開設の計画が立てられたのです。承応2年(1653)正月、幕府は庄右衛門・清右衛門兄弟に工事請負を命じました。ここに老中松平伊豆守信綱を惣奉行とする、玉川上水開設の計画はスタートしたのです。信綱の巨安松金右衛門の設計に従い、多摩郡羽村に堰を設けて取水口とし、四谷大木戸まで約43キロの開削水路を通し、そこから先は地価に配管(石樋・木樋)を敷設するという、当時としては非常に画期的な工法がとられました。 このほかに玉川上水は、江戸市民の飲料水供給にとどまらず、灌漑用水や新田開発など武蔵野台地の発展にも計り知れない恩恵を授けたのです。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区本町1-9-17 (高知新聞社員寮) 旗洗池跡 後三年の役(1083~1087)ののち、八幡太郎義家が上洛のときにこのあたりを通り、この池で白旗を洗って傍らの松にかけて乾かしたという伝説があります。その白旗はのちに金王八幡宮の宝物となり、いま残されている旗がそれであるといわれています。 この池は60平方メートル程の小さな池で、肥前唐津藩小笠原家の邸宅内にあり、神田川に注ぐ自然の湧水でした。昭和38年(1963)に埋められ、今は明治39年(1906)4月、ここに遊んだ東郷平八郎筆「洗旗池」の記念碑だけが残されています。 源義家がはたして白旗を洗ったかどうかについての証拠はありません。しかし関東地方特有の源氏伝説のひとつであり、幡ヶ谷というこの付近一帯の地名の起源となった有名な池だったのです。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区広尾5-1-21 臨済宗 瑞泉山 香林院 渋谷区指定有形文化財 香林院茶室こうりんいんちゃしつ 平成17年(2005)3月24日指定 香林院茶室は、仰木魯堂おおぎろどうが大正8年(1919)に自らの茶室として設計施工したものです。 魯堂は近代の茶室建築に深く関わった人物で、大正4年(1915)には、三井財閥の益田鈍翁(孝)の茶室で御殿山にあった為楽庵いらくあんの工事の一部を担当しました。 近代の財界人による茶の盛行を主導したのは、鈍翁、団琢磨、高橋箒庵、原三渓らですが、魯堂はこの動きに深く関わり、茶人として高い評価を受けていました。 かつて都心にあった財界人の邸宅には、このような茶室が数多くありましたが、戦災でその大半が焼失し、また戦後の再開発によっても多くが取り壊されました。魯堂の茶室もほとんどが失われ、数棟が現存するのみです。香林院茶室は、元の所在地に残されたものとしては唯一のものです。 渋谷区教育委員会 渋谷区指定有形文化財 歴代頂相画 附 絶山宗信像(模本) 平成17年(2005)3月24日指定 「頂相ちんそう」は高僧の頂(頭部)の相貌という意味で、一般には、禅宗の肖像を指して用いられます。中国僧の頂相が伝来した日本では、鎌倉時代末期から室町時代にかけて臨済宗系の寺院で作成され盛行しました。 臨済宗大徳寺派に属する当院の頂相画は、近世の作例で、開祖の絶山宗信ぜつざんそうしんから十二世の洞明宗仙まで、十八世紀初頭から二十世紀半ばまでの像が揃っています。 香林院の頂相は寿像(生前の像)の多いことが特筆され、像主の容貌を忠実に伝えている可能性が高いものです。 また、ほぼ全ての作例が、画賛の年紀などからその制作年代が判明し、多くの作例で絵師名が知られることから、頂相画の研究資料としても貴重なものです。 渋谷区教育委員会 香林院と大給恒おぎゅうゆずるの墓 香林院は、大給松平氏の菩提寺として、寛文5年(1665)に建立されました。開基は大給恒の先祖真次で、法名から寺号を香林院としました。 大給松平氏は、松平一門として徳川幕府に仕えました。その本拠は三河ですが、竜岡城(現長野県佐久郡臼田町。国指定史跡)は、恒が造った江戸時代の最後の城郭建築で、函館の五稜郭とともに我が国には珍しい洋式の城です。 恒は明治維新後に姓を大給と改め、新政府の要職に就きました。明治11年(1878)には、賞勲局副総裁となり、明治28年(1895)には、総裁となりました。日本の勲章制度の礎を築くとともに、彼が考案した日本古来の伝統に基づく勲章のデザインは現在も使われています。 また、明治10年(1877)5月に、佐野常民らと日本赤十字社の前身である博愛社を創設し、常民とともに初代副総長となり、日本の医療・福祉制度の整備に努めました。 大給恒墓は、この説明板の左手奥、祥雲寺山内の墓地にあり、大きな墓碑には「枢密院顧問官 正二位勲一等 伯爵 大給恒墓 明治四十三年一月六日甍」と刻まれています。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区代々木4-25-10 刀剣博物館の開館時間・展示物の確認は → 刀剣博物館のホームページ 刀剣博物館前には『赤羽刀記念碑』、『無名刀匠之碑』、『薫山 本間順治先生胸像』、『寒山 佐藤貫一先生胸像』、『「日刀保たたら」による鉧』があります。 所在地 渋谷区代々木4-25-10 (刀剣博物館) 「日刀保たたら」による鉧けら 「選定保存技術」とは文化財保護法第83条7によって規定されている文化財保存技術のことをいう。我が国には重要無形文化財という技術とその保持者(いわゆる人間国宝)が各分野で認定されている。しかしこの重要無形文化財はそれを様々な方面から援助し、そして支えていく技術がなければその真価を発揮することはできない。その技術として「選定保存技術」制度が、昭和50年(1975)に発足した。平成22年(2010)現在で、29団体がその技術の保存団体として認定を受け、その技術保持者として52人が認定されている。財団法人日本美術刀剣保存協会が運営する「日刀保たたら」も、この認定を受け、毎年冬季に操業を行い、ここに展示してある鉧を産出する。 この鉧は古来からの方法をほぼ完全なまま踏襲した工程を経て生産された。原料として、山陰から産出される「真砂」とよばれる良好な砂鉄を約10トン、そしてたたら製鉄用に生産された「たたら炭」約12トンを三昼夜燃焼させ、平均2.5トンの重さを持つ鉧が毎回の操業で生産される。この鉧は昭和57年(1982)度の操業で産出されたもので、鉧の姿形としては理想的な部類に入るといってよい。 毎年の操業終了後、鉧は大銅、小銅という道具で拳大ほどの大きさになるまで破砕されたあと、全国の刀匠へと供給され、貴重な日本刀製作技術の保存伝承に日々貢献している。 Selected Conservation Techniques by the National Government and Nittoho Tatara. Nittoho Tatara is a large traditional furnace for producing iron and steel. It is operated by the Society for the Preservation of Japanese Art Swords. Tatara is operated every winter. This large block of iron and steel (Kera) display was manufactured in 1982. This project is designated as a Selected Conservation Techniques. The system of designating Selected Conservation Techniques was established through an amendment to the Law for the Protection of Cultural Properties in 1975. This system was established for the purpose of supporting important intangible cultural assets.29 groups and 52 people are recognized as Selected Conservatiion Techniques as of 2010. This Kera weighs at about 2.5t. It was manufactured from 10t iron sand and 12t charcoal in the old traditional way. It taked 3 consecutive days and nights for this technique. The iron sand called "Masa" is carried from the San-in area and the charcoal called "Tatara zumi" is spesially produced for Tatara. After cooling down,the Kera is broken into small pieces and selected by quality. Japanese swords are made from these pieces of steel and iron. The Tatara project contributes to conservation of Japanese sword making techniques. 所在地 渋谷区代々木4-25-10 (刀剣博物館) 寒山 佐藤貫一先生胸像 明治40年(1907)鶴岡市大海町に生まれ、小学時代から頑健な体格に恵まれて硬骨の少年だった。 大正9年(1920)国学院大学大学予科に入学し、刀剣に関する鑑識も高く、同じ従兄の本間順治(号薫山)氏も既に国学院大学に在籍中であり、しばしば刀剣の会を催した。また、国学院大学剣道部主将としてその名声は高かった。 昭和23年(1948)教員を辞し東京国立博物館刀剣室に勤務し、刀剣研究専一の途を進む。敗戦による武器処理という日本刀の最大危機にあたって、これを保存するため、財団法人日本美術刀剣保存協会を有志と共に設立し、GHQ・法務局・警視庁と連日陳情を続け、遂に日本刀を美術品として所有することを認めさせた功績は偉大と言わねばならない。 博物館に奉職したことは専門以外の美術の分野にもよりいっそうしたしむこととなり絵画、書、陶器等その鑑識は一段と冴えを見せるとともに子弟の育成にもその情熱いやましてゆく。 昭和40年(1965)、刀工・研磨・鞘・白金・金工・漆工・外装等の技術の保存、育成を目的に作刀技術発表会の制度を設け、後に新作名刀展へと移行し現在に至っている。 昭和43年(1968)、全国愛刀家の念願であった刀剣博物館を自ら東奔西走し国庫補助を請願、広く募金活動を続け、遂にその努力が実り当地に竣成を見たのである。 昭和44年(1969)停年退官、財団法人日本美術刀剣保存協会専務理事、刀剣博物館副館長として専念することとなり、刀剣界発展のため寸暇を惜しんで次の大事業であるたたら製鉄の復活に心血を注がれ見事に責務を果されたが、日頃の激務がもとで健康を損われ、たたらの火入式を見とどけながら昭和53年(1978)2月26日遂に帰らぬ人となった。 日本刀を愛し、人を愛し、又、多くの人から愛され慕われた刀剣界の偉大な師、佐藤寒山先生の遺徳を偲び、その業績を讃え爰に像を建立するものである。 昭和35年(1960) 「御紋康縫」の研究論文により文学博士授与 昭和52年(1977)4月 勲三等瑞宝章授与 昭和53年(1978)2月 逝去、従四位贈位(山形県鶴岡市禅源寺埋葬) 財団法人日本美術刀剣保存協会 Kanichi 'Kanzan' Sato kanichi Sato was born in Taikai-cho,Tsuruoka-shi,Yamagata-prefecture in 1908. In 1925,he entered kokugakuin University,where his cousin,junji 'kunzan' Honma,was also a student. Whilis at university,they held many japanese swords study groups together. In 1948,kanzan Sato began to work at Tokyo Natinal Museum in the japanese swords department.Following japans defeat in the second World War,the allied occupational forces issued an order that all Japanese swords were to be confiscated. Kanzan Sato,along with kunzan Honma and a group of volunteers,petitioned the allied forces General Head Quarters(GHQ) requesting that the Japanese people be allowed the possession of japanese swords as art objects. Finally,the Metropolitan Police Department and Ministry of justice received permission from GHQ toallow the Japanese people to keep their swords. In 1965, Sato co-founded the annual Japanese swords competition - the aim of which was to preserve and foster the traditional skills of swordsmiths and related craftsmen (polishers,scabbard makers,habaki markers,lacquerers and decorative sword fitting makers). In 1968,the Japanese Sword,Museum was opened under the patronage of the Japanese govermment,and Sato was at the forefront of this endeavour. Kanzan Sato retired from tokyo national Museum in 1969. He was appointed as managing director of the Society for the preservation of Japanese Art Swords, and as deputy director of the sword museum. From that time onwards,he devoted himself to the revival of traditional Japanese iron manufacture,known as tatara. Just after attending the initial firing ceremony of the newly restored Nittoho Tatara,Sato was hospitalize. He died at the age of 70 on February 26th 1978. 所在地 渋谷区代々木4-25-10 (刀剣博物館) 薫山 本間順治先生胸像 薫山本間順治先生は山形県酒田市の名家に生まれ若くして日本刀の研究に志して刀剣学を樹立し文学博士の称号を得られた。その間1945年太平洋戦争の敗戦に際し、進駐軍は日本刀の統べてを武器として没収しようとしたが、先生は敢然これの美術面を強調して遂に彼等を説得し、為にわが民族が完成した世界に誇る鉄の文化財日本刀は永久に保存されることとなった。その功績は刀剣史上寔に比類がない。先生は又終戦後の混乱した刀剣界の再興を図り首唱して財団法人日本美術刀剣保存協会を創立せられたが、これが刀剣会の今日の未曾有の盛況を見る源泉となったことは周知のとおりである。 今年先生が古希の寿を迎えられるに当たり、先生の弥栄と万才の寿を祈って先生の胸像建立の議が全国愛刀家の間に沛然として起こるに至った。よって建立の地をかつて先生が同志と心血を傾倒して建設された刀剣博物館の玄関に選び、像の制作は愛息本間薫山紀男君に委嘱、ここに永く先生の徳を景仰することとなった。 1974年夏日 全国愛刀家有志一同 昭和26年(1951) 文学博士授与 昭和49年(1974) 勲三等旭日中緩章授与 平成3年(1991)8月29日 逝去(駒込吉祥寺埋葬) Junji "Kunzan" Honma Junji "Kunzan" honma was born of an eminent Japanese family in Sakata city of Yamagata prefebture. He went on to earn a doctorate in literature, and his dessertation on Japanese swords set the standard by which they are studeied today. One of his most admirable contributions to Japanese sword preserbation was successfully petitioning the Allied Forces to cease the confiscation of swords from the Japanese people. In 1945,following Japan's defeat in the Second World War,Japan was occupeid by the Allied Forces. One of the occupational farce's policies was to confiscate all weapons (including Japanese swords). However,Kunzan Honma and Kanzan Sato protested to the Allied Forces General Head Quartes (GHQ) that Japanese swords were not merely weapons,but valuable are objects of excellent quality. As a result of their efforts,GHQ rescinded the order,allowing the Japanese people to retain possession of their prized swords. Through Kunzan and Kanzan's labors,many Japanese swords were saved from seizura,destruction,or removal from Japan. He led to the founding of the Society for the Preservation of Japanese Art Swords(NBTHK). 所在地 渋谷区代々木4-25-10 (刀剣博物館) 赤羽刀記念碑 赤羽刀処理の終結 記念碑に示された未処理の赤羽刀4576本については、旧所有者に7本が正式返還され、国が直接に公開・活用をはかるための60本及び似銘や美術刀剣類として再生不可能なものなどは総て国が保管し、残る3209本については全国の都道府県教育委員会を通じて申請のあった191の公立の博物館・美術館等に譲与して公開・活用に供されることとなった。そして接収刀剣類処理検討会議専門部会によって当該刀匠の故郷に譲与することを主とする厳正且つ公平な配分案が作成され、文化庁により平成11年(1999)12月21日を以て引渡しが完了し、我が国が世界に誇る国民的文化遺産である数奇な運命を辿った赤羽刀が戦後50有余年を経て、見事甦りその処理を終えるに至った。 平成12年(2000)3月1日 財団法人日本美術刀剣保存協会 DEDICATION After the end of the World War Ⅱ,Japanese swards of a considerable number were confiscated as dangerous weapons by the order of the Occupation Forcs of Allied Powers. The policy was later amended at the repeated petition of Japanese sword lobers and auathorities,but the situation was little improved,since examining of art swords was still carried on by the Occupation Forces. Colonel C.V. Cadwell,who was in charge of the 8th Army Provost Marshal,was most concerned with the loss of the swords of artisitec and historic value,and at his recommendation,there was organized the official Japanese Sword Appraisal Committee,through the activities of which most of the masterpieses of Japanese swords came to be duly protected. The name of Colonel C.V. Cadwell should forever be remembered as the sabiour of Japanese art swords. Junji Honma October,1973 赤羽刀始末記 「赤羽刀」の由来は大東亜戦争の終結により占領軍によって接収された刀剣類の内、海中投棄や焼却・寸断処理等をのがれて残されたものが当時赤羽の米第8軍兵器補給廠(旧陸軍倉庫)に集められたことからの通称となった。昭和22年(1947)に内務大臣より20名の審査員が任命され、現物審査にあたられたが山積された状態で惨憺たる有様であった刀剣を長期にわたり選別作業され所有者が判明した908本は昭和23年(1948)から返却され、残された4576振りが本■に■められ東京国立博物館地価倉庫に搬入保管されてきた。~ 所在地 渋谷区代々木4-25-10 (刀剣博物館) 無名刀匠之碑 市井の刀剣研究家である三田光剣氏は幼少の頃より刀に魅せられ、独学で研究一筋の道を歩まれ、昭和36年(1961)、刀剣趣味の不朽と後進の指導育成を思いたち「古歴刀保存会」を設立し、多くの愛刀家を世に送る傍ら当時の刀剣界の風潮は古名刀や著名刀のみが持囃される反面、無名刀工の作は全くといってよいほどに埒外におかれていることを憂い、身延山増田日遠大僧正に、揮毫を依頼、自費で自宅玄関傍に「無名刀匠の碑」を建立し自らの心の慰めとされていた。 一方「古歴刀保存会」は設立以来33年を経過し、初期の目的を達したとして昨年解散し、その後は只管「碑」の御供養に専念されておられたが、高齢のためこの先の保守が困難であることから教会がお預りし、同氏に代って御供養させていただくこととした次第である。 平成7年(1995)正月 財団法人日本美術刀剣保存協会 会長山中貞則 所在地 渋谷区恵比寿1-18-1 (台雲寺) 歌川国宗墓 浮世絵師歌川国宗は本名を山下松五郎といい、初代豊国の門下で、長文斉、杉嶺と号し、文政年間に作品を出しましたが安政4年(1857)に没しました。 東京都渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区恵比寿1-18-1 (台雲寺) 軍馬の碑 日清戦役に従軍して犠牲となった軍馬をあわれみ、 みいくさを のするのみかは かてをさへ はこぶも馬の ちからなりけり という歌を刻んだ珍しい碑です。 東京都渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区恵比寿1-18-1 (台雲寺) 子育地蔵尊 建設年月日 昭和16年(1941)4月4日 建設者 渋谷区恵比寿4丁目10-2番地(旧景丘町33番地) 父 柴田寅蔵(当年82才) 母 故柴田登美(昭和53年〔1978〕8月17日 亡くなる78才) 昭和5年(1930)9月25日次女美代子が(5才)で亡くなり、昭和15年(1940)12月4日四男登久光を(5才)で亡くし両親は冥福を祈るため旧青山1丁目石勝石材店の日本一の石工(帝展入選者)の加工を受け子育地蔵尊と名付け末永く供養をいたし、世の中の子供が育つようにと建設する。 昭和16年(1941)4月4日開眼式を行う。 当時は戦時中にて物資の統制を受けていたが、父親は陸軍の御用商人であったので、特別な配給を受け約400名の来賓を迎え旧台雲寺本堂にピアノを持ち込み日頃故登久光がすきであった(荒城の月)を勅選教授平井美奈子先生に歌ってもらい、つづいて父親がつくった歌「ああ登久光やなぜ死んだ」を歌ひつつ父親がピアノをひき供養を致しました。 昭和54年(1979)1月 子育て地蔵尊建設者 柴田寅蔵 |
町名
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性
|