東京都渋谷区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 渋谷区元代々木町23-11 庚申塔・地蔵尊像 中国道教の教えで、三尸説を母体とした複合信仰を庚申信仰といいます。人の体内には、上尸(首から上にいる)・中尸(腹中にいる)・下尸(足にいる)という三匹の虫がいるというものです。 庚申の晩に人が眠ると、その虫が、身体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の罪過を報告します。人は天帝の下す罰によって早死にしたり、病気になったりすると信じられていました。 素朴な村びとたちは、庚申の夜になると当番の家に集まりお勤めをしたり、飲食や雑談をしたりしながら楽しく一夜を明かし、虫が体内からはい出さないように過ごしました。これを庚申待または庚申会といいました。 渋谷区域にもこのグループがたくさんあり、これを庚申講といいました。その人びとが家内安全や五穀成就を祈って建てたのが庚申塔です。 また地蔵講の人たちが、庚申塔のかたわらに地蔵尊像を建てて信仰していました。 渋谷区教育委員会 PR 所在地 渋谷区元代々木町24-4 田中地蔵尊 「単価地蔵尊縁起」によると、元文3年(1738)10月、向井七左エ門が、五穀成就、庶民安楽、子供の延命を祈って、福泉寺寺領の田地に地蔵尊を安置したといわれています。その後、寛政2年(1790)に、奈良岡寺の観音像を模写し、各尊像の台座を新調して田中地蔵と呼びました。広い境内(敷地一畝約100平方メートル)に杉一本を植えて村びとたちの目標としました。毎年7月廿四日を縁日とし、この日には、農民や子どもたちが集まって祭典を行っていました。 右の石仏が、如意輪観世音菩薩像 中央の石仏が、鶏亀地蔵菩薩像 左の石仏が、延命地蔵菩薩像 といわれています。 左手前に、享保10年(1725)につくられた庚申塔が建っています。 東京都渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区渋谷2 渋谷区近代学校教育発祥の地 このあたりには、かって渋谷川が流れ、その水を利用して水車がまわっていました。 明治5年(1872)に学制が公布されたとき、中渋谷村では三井八郎右衛門、森島伝兵衛、野口清右衛門の三人が中心となって、この付近の人びとから建築資金を集め、成富清風の提供した中渋谷二番地(明治通りと宮益坂の接するところ)の1,388平方メートル(一反四畝)の土地にかやぶき平家建て69平方メートル(21坪)の校舎が建築されました。 明治8年(1875)3月15日に新学制により開校した当時は、学制にもとづき第一大学区第三中学区第19番であったといい、渋谷区地域に初めてつくられた公立の小学校です。 ところが現在と違い公費は少ししかもらえないので、学校の経費はここにあった三井八郎右衛門の水車の利益金でまかなったといいます。 なお、その小学校は東京都渋谷区立渋谷小学校と名が変っておりますが、現在渋谷区の持つ文京区的性格はこの明治8年(1875)にはじまりました。 東京都渋谷区教育委員会
所在地 渋谷区西原3-31-1 (雲照寺)
絹本著色仏涅槃図 区指定有形文化財 平成21年(2009)2月26日 涅槃図とは、釈迦が入滅する場面を描いたもので、一般的には陰暦の2月15日の涅槃会の際に用いられます。本図の中央には釈迦が両膝を少し曲げて横たわり、手枕をして顔をこちら側に向けています。釈迦の周りには、菩薩や仏弟子、天部や俗人、動物たちまでもが嘆き悲しむ姿に描かれています。釈迦が横臥する宝台が左側面を見せる構図や会衆が多くなrんは、平安時代の形式とは異なり、鎌倉時代以降に一般的になる形式です。右上方には、雲に乗って馳せ下る摩耶夫人(釈迦の母親)と侍女の一行が描かれており、画面は涅槃教典に忠実に基づいて描かれています。このうち、仏鉢じゃ錫杖に懸け沙羅双樹に立て掛けるのが通常ですが、本図では、釈迦の頭部の後ろに置くという特色が見られます。特に人物の表現が豊かであり、宋元風の筆法を取り入れた巧みな描線とともに、細やかな着衣の彩色文様も、よくとどめられています。 釈迦を比較的大きく描き、あまり俯瞰視しない構図とするのも古様であり、本図の制作は南北朝時代に遡ると考えられます。 伝来については明らかではありませんが、都内では江戸時代の作例が多い涅槃図にあって、本図は中止の希有の優品として価値が高く、区内の最古例として賞されます。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区西原3-31-1 (雲照寺) 庚申塔・板碑 江戸時代の民間信仰のひとつに庚申講がありました。初期には60日ごとに講中(グループ)が集まって念仏と唱え、長寿を祈る行事でしたが、のちにレクリエーションに変わっていったようです。 その信仰の対象がこの庚申塔で、青面金剛、天邪鬼、日月、三猿、二鶏その他が彫ってあり、寛文12年(1672)の銘が刻まれている立派なものです。 板碑は、鎌倉時代頃から作られはjめた卒塔婆の一種です。うすく割った石の頭部を三角形に作り、上部に二本の横線を刻み、その下に阿弥陀の梵字を彫ってあります。造立年代は不明ですが、本区の中世史研究に欠くことのできない大切な資料です。 渋谷区教育委員会
所在地 渋谷区西原3-31-1 (雲照寺)
木造十一面観音立像 区指定有形文化財 平成19年(2007)3月1日 本像は、頭上に十面と化仏立像をいただく十一面観音立像で、左手で未開の蓮華を挿す水瓶をとり、右手は肘を軽く曲げて下ろす姿です。現在は、頭上面のすべてを後世に作り直している(このうち一面を欠く)状態ですが、本来十一面観音像として造立されたことは確かです。 像の表面も近世の着色に覆われていますが、おなかを引きしぼり、腰をわずかに左にふり、右足を前に出して立つ細身の優美な姿は、平安時代後期の特色をよく伝えています。ただし、お顔の奥行きが深い点や腰につける裳の正面に渦文をあしらうかたちなどは、平安時代前期の作風を踏襲するもおで、院政期の中央の作とも異なるつくりといえます。像本体は、頭部から両足まで一本の樹木(針葉樹)で通し、像の内部を刳り抜かない一本造(いちぼくづくり)という技法によっています。 本像の伝来は不明ですが、都風の洗練された表現様式を巧みに活かした12世紀半ば頃の古像が当区に存在すうのは稀有な例です。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区代々木5-65 「春の小川」歌碑 ここはかつて清らかな小川が流れ、黄色のかわいらしい”こうほね”が咲いていたので、河骨(こうほね)川と呼ばれていました。春になると、岸辺にはれんげやすみれが咲く、のどかな所でした。 明治42年(1909)から代々木山谷(現代々木3丁目3号)に住んでいた国文学者の高野辰之氏は、このたりの風景を愛して、しばしばこのほとりを散策したといわれてます。そして、今も歌い続けられている『春の小川』を作詩して、大正元年(1912)に発表しました。この詩は、小学唱歌となり、現在に至るまで広く愛唱されています。 現在、河骨川は暗渠となり、もはや当時のおもかげはありませんが、この詩から明治末ごろの付近の様子を知ることができます。ここにある歌碑は、このことを永く後世に伝えるために、地元の篤志家が建設し、渋谷区に寄贈されたものであります。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区富ヶ谷1-31-1 鞍掛の松 伝承地 現在では道路となっていますが、この付近には、かつて「鞍掛の松」と呼ばれていた名木がありました。のちに松に目印となっていたようです。 この松については、江戸時代でも早い時期に編纂された「江戸鹿子」には、「所の人ハ古ヘ右大将源頼朝奥州征伐の時、此野に来、土肥月毛と云馬を此木につなき、同く鞍を此木に懸給ふ云、此木枝たれて木形面白く又比類なき松なり、」と記され、頼朝が欧州征伐の折、鞍をかけた松として紹介しています。 また、「江戸鹿子」よりのちに書かれた「江戸砂子」では、頼朝でなく義家が奥州征伐(後三年の役)に行ったときの話としています。いずれにしても区兄にある伝承地(旗洗池・勢揃坂)と同じく、関東地方特有の源氏伝承のひとつといえましょう。 松は、幕末・明治の激動期に枯死し、新しい松が昭和17年(1942)・昭和18年(1943)頃まで存在していたようですが、道路(山手通り)の拡幅工事のため取り払われてしまいました。 渋谷区教育委員会 所在地 渋谷区代々木5-1-1 代々木八幡宮 御祭神 主座 八幡宮(應神天皇) 配座 天祖社(天照大神) 白山社(白山媛神) 別宮 稲荷社(豊受大神) 榛名社(日本武尊) 天神社(菅原道真公) 末社 稲荷社(出世稲荷大明神) 例祭日 宵宮祭 9月22日 例大祭 9月23日 御由緒 当社は鎌倉時代の初め、建暦2年(1212)9月23日に、鎌倉幕府第2代将軍源頼家公にかかわる遺臣荒井外記智明によって創建された。 智明は、頼家公が伊豆の修善寺で非業の最期を遂げられてからこの代々木の地に隠棲され、名も宗祐と改めて、日夜亡き主君らの冥福を祈っていたが、ある夜夢の中に故郷鎌倉の八幡宮から宝珠のごとき鏡を感得された。 これによって小祠を営み、八幡宮を勧請されたのがはじまりである。 代々木八幡宮には『代々木八幡遺跡』、『威徳大業碑』、『八幡宮紀念の碑』、『菅公一千年 歌碑』、『絵馬「代々木八幡縁起絵」』、『絵馬 伝「神功皇后之図」』、『訣別の碑』、『臼田亜浪の句碑』、『代々木八幡宮神輿』、『出世稲荷社』、『稲荷社・天神社・榛名社』、『「代々木囃子」説明版』、『「代々木もちつき唄」説明版』があります。 所在地 渋谷区代々木5-1-1 (代々木八幡宮) 「代々木もちつき唄」説明版 区指定無形民族文化財 平成18年(2006)3月9日 代々木の餅つきは、現渋谷区の初台、代々木、西原、上原一帯で、農家が、5、6軒を一単位として共同で行われていました。歳末の早朝から一単位あたり2時間ぐらいでつきあげ、夕刻までかかったといいます。「もちつき唄」は、餅をつく前段のこねる作業の時に唄われていましが。しかし、昭和30年(1955)を過ぎる頃から、農家の現象や農地の宅地化、商店からの餅の購入等の理由で、次第に行われなくなりました。その餅つきや「もちつき唄」が忘れられてしまうのを惜しんだ有志が集まり、昭和43年(1968)に「代々木もちつき唄保存会」を結成しました。毎年、代々木八幡宮において行われる節分会では、参詣者に餅が配られますが、その餅をついているのが「代々木もちつき唄保存会」です。 (一)目出たな 目出たな目出たの 若松さまよ 枝も栄えて 葉も茂る (二)庭にゃな 庭にゃ鶴亀 五葉の松 松の下にゃ おじじとおばば (三)お前な お前な 百まで わしゃ 九十九まで 共に 白髪の 生えるまで 渋谷区教育委員会 |
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