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東京都渋谷区の歴史
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所在地 渋谷区渋谷3

  稲荷橋いなりばし

 
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所在地 渋谷区渋谷1・2

  宮益橋跡
 
下の写真は、渋谷駅北側、現在の宮下公園付近を流れる渋谷川です。遠方に見える橋は宮益橋で、その後ろの建物は、川の上に建つ東横百貨店(現東急百貨店東横店)です。橋の右手には、かつての宇田川が流れ込んでいるのも見えます。渋谷川上流は昭和38年(1963)に暗渠あんきょになりましたが、写真にみえる区間は、少し遅れた45年に暗渠になりました。


                 昭和32年 渋谷川と宮益橋


所在地 渋谷区渋谷1-12-16

  宮益御岳神社





 宮益御岳神社境内には『明治天皇御嶽神社御小休所阯碑』、『不動尊』があります。


所在地 渋谷区渋谷1-12-16 (宮益御岳神社)

  不動尊
 当 不動尊石像は、延宝9年(1681)3月6日建立され、古くから炙り不動と称せられ、苦しみや疫病などを香煙で炙りだすと伝えられ、信仰厚い不動尊として、近郷近在に知られております。また、一部には、札炙り不動として商人衆、金融関係の方々がお札を炙り、倍々に富を殖やすともいわれ、隠れた人気を呼んでいます。




所在地 渋谷区渋谷1-12-16 (宮益御岳神社)

  明治天皇御嶽神社御小休所阯碑
 ここは、明治3年(1870)4月17日、明治天皇駒場野の練兵天覧御幸の際、御往復共、当御嶽神社拝殿を御座所に当てられ、御小休所となった所であります。
 当日は、午前5時御乗馬にて、皇居を御出発され、外桜円より赤坂をお通りになり、吉井友■邸で御小休、更に御板輿に御移乗になり、当御嶽神社に於て再び御小休、御召還になり、御乗馬にて騎馬野練兵場に向われました。
 午前8時駒場野御着、午前9時燈火(花火)一発を合図に、練兵を御覧になり午後3に終了致しました。午後4時、号砲一声還御となり、前軍より次第に列を進められ、御嶽神社、吉井邸にて各々御小休され、午後6時還幸になりました。
 翌18日、明治天皇の思召により、当神社に鳥居及び駒寄せの御奉納がありました。
 昭和14年(1939)2月、明治天皇聖蹟記念碑を建立しました。
天皇陛下御社位60年奉祝記念
 昭和60年(1985)11月3日建


所在地 渋谷区渋谷3-15

  鎌倉道

 この右手の細い道を、古くから鎌倉道と呼び、源氏が鎌倉に幕府を開いて以来、東日本の各地に設けた軍道のひとつといわれています。
 ここから西へ行くと、渋谷川を渡って台地をのぼり、猿楽塚の二つの築山の間を抜けて目黒川にくだり、さらに多摩川を渡って神奈川県にはいります。
 また、東に進むと、青山学院の付近を渡り、千駄ヶ谷方面に達し、さらに東北地方に向かっていたといわれています。
 大永4年(1524)に、相模の北条軍がこの鎌倉道を通って江戸に攻めのぼり、その時の戦火が渋谷地域にも及び金王八幡宮付近にあった城館が焼失したと伝えられます。
 渋谷区教育委員会 



所在地 渋谷区渋谷2

 渋谷区近代学校教育発祥の地
 このあたりには、かって渋谷川が流れ、その水を利用して水車がまわっていました。
 明治5年(1872)に学制が公布されたとき、中渋谷村では三井八郎右衛門、森島伝兵衛、野口清右衛門の三人が中心となって、この付近の人びとから建築資金を集め、成富清風の提供した中渋谷二番地(明治通りと宮益坂の接するところ)の1,388平方メートル(一反四畝)の土地にかやぶき平家建て69平方メートル(21坪)の校舎が建築されました。
 明治8年(1875)3月15日に新学制により開校した当時は、学制にもとづき第一大学区第三中学区第19番であったといい、渋谷区地域に初めてつくられた公立の小学校です。
 ところが現在と違い公費は少ししかもらえないので、学校の経費はここにあった三井八郎右衛門の水車の利益金でまかなったといいます。
 なお、その小学校は東京都渋谷区立渋谷小学校と名が変っておりますが、現在渋谷区の持つ文京区的性格はこの明治8年(1875)にはじまりました。
 東京都渋谷区教育委員会



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