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東京都渋谷区の歴史
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所在地 東京都渋谷区道玄坂2-1 

 「渋谷区くみんの広場」は、渋谷を「わが街と誇れる渋谷」とするために、渋谷を愛する人々が一体となって、この街に受け継がれている自然とやすらぎを享受し、そして区政進展の一助となるよう開催されています。

 世界連邦渋谷区連合会は、昭和26年(1951年)区民により設立され、世界各国が世界連邦政府の下で、世界の平和と人権を守っていこうとする世界連邦理念の普及活動を行っています。

 渋谷区は昭和35年(1960年)に「世界連邦都市」を宣言し、さらに、区制施行70周年の節目の年に当たる平成14年(2002年)には、21世紀を展望し、高い自治意識の下に、平和・国際都市としての一層の発展を、区と区民相互の連携と協働により目指すため、10月1日を「平和・国際都市渋谷の日」とする条例を制定しました。

 ここに、今日の渋谷を築いた先人に感謝しつつ、平和で豊かな未来に向けて渋谷が活力を生み出していく象徴として「平和・国際都市 渋谷の碑」を設置します。

   平成15年(2003年)11月3日 

          渋谷区くみんの広場実行委員会

          世界連邦渋谷区連合会

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所在地 東京都渋谷区恵比寿西2-11-7

 庚申信仰は、江戸時代に盛んに行われ、多くの講(グループ)が作られました。それにともない、たくさんの庚申供養塔があちこちの路傍に建てられたのです。

 その信仰とは、60日ごとに巡ってくる庚申の夜、うっかり寝てしまうとそのまま死んでしまうことがあると信じられていました。庚申の日は、一晩中飲んだり食べたりしながら語り明かして、眠らないようにして過ごしたのです。その仲間を庚申講と呼びました。

 ここには五基の庚申塔と馬頭観音が一基あります。

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 囲いのなか向かって右側より、寛文8年(1668年)、延宝4年(1676年)、延宝2年(1674年)、寛文4年(1664年)の庚申塔があり、明治38年(1905年)の庚申塔は馬頭観音と共に囲いの外に建っています。

渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区恵比寿 - 渋谷区恵比寿南

 アメリカ橋は、明治15年(1926年)に架設されましたが、当時の橋は、明治37年(1904年)に開催されたセントルイス万博(アメリカ)に出展された橋を架設した事から、この橋が「アメリカ橋」と呼ばれるようになりました。

 現在の橋は、二代目ですが、平成18年(2006年)の改修にあたり、安全性の向上を図ると共に周囲の景観に配慮し、街路樹については、世界的に著名な照明デザイナーの石井幹子さんによってデザインされました。

 この改修は、景観の向上について東京恵比寿ロータリークラブより提言と協力をいただき、渋谷区が計画をしたものです。

 渋谷区では、歌の題材としても皆様に親しまれているこのアメリカ橋を今後とも大切にしていきます。



<歌のデータ>

昭和54年(1979年)のヒット曲 「アメリカ橋」
  歌 狩人    作詞 奥山侊伸    作曲 信楽順三

平成10年(1998年)のヒット曲 「アメリカ橋」
  歌 山川豊    作詞 山口洋子    作曲 平尾昌晃


平成18年(2006年)9月 渋谷区


所在地 渋谷区渋谷2-24 (東横のれん街)

 平和の訪れと共に、伝統への憧れが人々の心によみがえりきたることに応えのれんの味を守り続けきしもの相集い東横百貨店の理解と協力のもと 昭和26年(1951)10月27日 この地に「東横のれん街」を開店せり
 世界に比類なき この老舗食品専門店集団による商法は 忽ち日本国中に大きな反響を呼び 同様のもの各地に続出
 将に 戦後の商業史上に一大紙面を画するものとなる
 依って茲に「東横のれん街」誕生50年に当たり碑を設けこの地を「のれん街発祥の地」と明記するものなり
      平成13年(2001)10月27日
        東横のれん街 第5代会長 細田安兵衛 記



所在地 渋谷区笹塚1-23

  玉川上水 

 玉川上水は、松平信綱を総奉行、伊奈半十郎を水道奉行とし、承応2(1653)年に庄右衛門・清右衛門兄弟の手によって着工されました。この工事は、多摩川の羽村に取水口を設け、そこから実に43km先の四谷大木戸まで掘り割りをつくって上水を引くという大工事でした。上水は、承応2(1653)年11月に四谷大木戸まで、また翌年(1654)6月には江戸市内までそれぞれ完成し、通水しました。
 その功績によって、兄弟は玉川の姓を名のることを許されました。
 この上水は、江戸市民の飲料水として使われましたが、その余水は田畑の灌漑用水にもなりました。また、その落水を利用して水車を動かすなどこの渋谷にもかぎりない恩恵を与えてくれました。

     渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区恵比寿南1-5 (JR恵比寿駅西口)


東京恵比寿ライオンズクラブ 創立十周年記念

  昭和五十年十一月十六日

  制作者 木下繁



『ゑびす像』 三木武夫書


所在地 渋谷区道玄坂2-6

 与謝野鉄幹は明治34年(1901)麹町から渋谷に移り住み、晶子と結婚しました。東京新詩社の機関誌「明星」を12号から発行し、晶子も歌集「みだれ髪」を刊行しました。詩歌革新を目指して盛んに文学活動を行いましたが、明治37年に千駄ヶ谷に移るまでに、この近くで2度住まいを変えています。千駄ヶ谷に移り住んでから、東京新詩社は最盛期を迎え、晶子も歌集「恋衣」や「夢の華」などを刊行しましたが、新詩社の機関誌「明星」が百号で廃刊される事態となり、明治42年に神田駿河台に移りました。
 

所在地 渋谷区松濤1-7 (大山稲荷神社)

御祭神   倉稲魂命(稲荷大神)
御鎮座   昭和47年(1972)7月5日
御遷座   平成19年(2007)9月2日

観世稲荷社は 昭和47年(1972) 観世能楽堂が松濤の地に移転したことにともない 京都 伏見稲荷大社より新たに御分霊を頂き 流儀及び能楽堂の御加護を願い 楽屋中庭にて永らくお祀り致して参りました この度 益々御神徳が広まりますよう また皆様にも御崇敬を頂くことを願い この地に御遷座申し上げた次第でございます
 平成19年(2007)9月吉日 26世観世宗家 観世 清和
                       社団法人 観世会



所在地 渋谷区神宮前

 神宮橋は大正9年(1920)、明治神宮の造営時に山手線を跨いで架けられ、当時としては珍しく、鉄骨を使用したコンクリートの橋桁であった。橋の装飾は最も苦心したところで、御影石の高欄部分には黒松を吹寄植して橋を渡る人々に下を走る列車を気付かせないよう配慮すると共に橋詰には石燈籠を現代化した親柱を建てた。
 多くの人々に親しまれてきたこの橋も、寄る年波には勝てず、60有余年間その使命を十分に果たし、新しい橋に架け替えられた。
 新しい橋は古い橋の姿をできるだけ損なわないように高欄は御影石を使って再現し、親柱は当時の石材を補修してそのままの形に復元した。そして、歩道部分の舗装には御影石を組合せてその中に渋谷区の木「けやき」をデザインして配置し、新しい原宿の町にふさわしく明るい感じとしたものである。
 昭和57年(1982)9月  東京都


所在地 渋谷区東4-4-9 

 もとこのあたりにあった皇室の御料乳牛場の構内に常盤松と呼ばれた樹齢約400年、枝ぶりのみごとな松がありました。その松は源義朝の妾、常盤が植えたという伝説があり、また一説には世田谷城主吉良頼康の妾、常盤のことであるといいますが、はっきりしたことはわかりません。
 この近くにはかつて渋谷城があり、渋谷一族の金王丸は義朝、頼朝の2代に仕えた臣ですから、常盤御前が植えたという伝説が生まれたのでしょう。
 この碑は御料地になる以前に、その土地が島津家の持地だったことがあり、そのときに島津藩士によってたてられました。当時常盤松の代価壱千両といわれたほどの名木で、このあたりの地名であった常盤松町の起源となりました。
 東京都渋谷区教育委員会

     MONUMENT OF TOKIWA-MATSU
 Until 1966 this area was long known as Tokiwa-matsu because of a beautiful old pine tree(matsu)that stlld by thisstone monument.The original pine tree was 400years old when it deid shortly after world war Ⅱ.
 According to the inscription on this monument the pine tree was originally planted by lady tokiwa,famous in the old taled of Heike-story for her beauty and for being the mother of Minamoto Yoshitsune,who led the genji army to defeat the Heike family in the 12th century.


所在地 渋谷区東4-9-1 (渋谷区立白根記念郷土文化館) 


白根記念
 渋谷区郷土博物館・文学館


松崎慊堂(まつざきこうどう)宅地跡

 松崎慊堂は江戸後期の儒者で、熊本に生まれ16歳で江戸に出て、幕府の昌平黌に学びました。32歳のとき掛川藩に招かれ藩政に参画しました。45歳のとき藩を辞し江戸に出て、このあたり羽沢に山荘を営み研究と門弟の教育に尽力しました。弘化元年(1844)74歳で没するまでここに住み、石経山房(せっけいさんぼう)と名付けました。
 慊堂の学問は朱子学が中心でしたが、経書一般にわたり国典にも詳しく、考証の面や詩文にも長じ、学識はひろく、識見も卓越していました。
 『慊堂日歴(こうづにちれき)』はこの山房の日記ですが、この時代の天候の模様や、村人の生活などを知るのに貴重な史料です。
 渋谷区教育委員会

 敷地内には『阿弥陀一尊図像板碑』、『力石』、『庚申塔』、『白松(はくしょう)』、『五輪塔・傘屋の碑・聖観音』があり、道を挟んで向かい側には『常盤松の碑』があります。


所在地 渋谷区東4-9-1 (渋谷区立白根記念郷土文化館) 

渋谷区指定有形文化財
 阿弥陀一尊図像板碑
     平成19年(2007)3月1日指定

 この図像板碑の材質は、秩父産の緑泥片岩です。板碑の形状は、山形の頂部、2段の切込み(二条線)、やや突出気味の額部、それ以下の身部、地価に差し込む基部からなります。その下方部(身部の一部と基部)を欠損しておりますが、中心をなす身部には、来迎印を結び蓮台上に立つ阿弥陀如来像が光条を放つ姿で線刻されています。その上方には日月や天蓋が彫りこまれ、蓮台下には、花瓶と香炉が前机の上におかれるという図像で、蓮台の左右に「月待供養」の文字が刻まれています。前机下には、紀年銘と思われる「文」という文字を中心にして、その左右に偈もしくは供養者名と考えられる文字が彫られていたことが痕跡から窺えます。
 板碑の形態や現存する図像板碑の類例から判断すると、15世紀後半頃にあたると考えられることから、「文」は文正か文明、あるいは文亀という年号が想定され、本図像板碑が室町時代中頃に制作されたものと推定できます。
 伝来については、不明な点が多いのですが、当区内に存在する板碑のなかで、図像を表すのはこの板碑だけであり、阿弥陀如来一尊と月待供養が刻まれた図像板碑は、現在のところ関東地方に十数点しか確認されていません。
 渋谷区教育委員会


                      五輪塔

所在地 渋谷区東4-9-1 (渋谷区立白根記念郷土文化館) 

 五輪塔は、中世以降につくられた墓で、これはもと神宮前1丁目(旧竹下町)にありました。
 銘文から正徳3年(1713)に建てられたことが判明し、蔵治義盛氏から区に寄贈されました。



                            傘屋の碑

 傘屋の碑は、もと千駄ヶ谷にあったといわれ、江戸時代に土地の傘問屋の仲間がつくったものと思われます。金王八幡宮から寄贈されました。


                    聖観音

 聖観音2基は、もと恵比寿橋から明治通りにでる左角にありました。言い伝えによるとある大名の奥方がこのあたりで急死し、その供養のために建てられたものといわれています。
 戦後、しばらく、ごみの中に埋まっていたのを、齋茂一氏が保管され、齋巌氏から区に寄贈されました。
 渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区東4-9-1 (渋谷区立白根記念郷土文化館) 

 江戸時代の民間信仰のひとつに、庚申講がありました。初期には、講中(グループ)が60日ごとに集まって念仏を唱え、長寿を祈る行事でしたが、のちにはレクリエーションに変わっていったようです。
 右側の2基は、桜丘町29番にあり、斎大治氏が大切に保管されていたものを、区に寄贈されました。
 渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区東4-9-1 (渋谷区立白根記念郷土文化館)

 松の仲間として分類された中国原産の植物で「しろまつ」とも呼ばれています。日本の松とは幹の皮の感じが違いますが、葉は似ています。しかし、個々の葉をよくみると、赤松や黒松が2本なのに対して、これは3本に分かれていることが特徴です。また、樹形も上に向かって合掌するような形になっています。全国的にみても非常に数の少ない稀種です。
 この松は、大正の末ごろ、中国北京から持ち帰ったもので、内田治氏のご好意により昭和53年(1978)1月、区に寄贈されました。
 渋谷区教育委員会




所在地 渋谷区東4-10-28 (国学院大学)

この顕彰碑は、桑原芳樹翁の遺徳を哀慕する人々の浄財をもって、10年祭を迎えた昭和27年(1952)10月23日、石川岩吉理事長・学長の撰文により除幕。翁は文久元年(1861)12月20日筑前宗像郡吉田村(現福岡県宗像郡玄海町吉田)に生まれ、旧姓小林、幼名芳三郎、のち芳樹。明治7年(1874)宗像神社に出仕。明治14年(1881)上京、神道事務局生徒寮に入り、翌明治15年(1882)皇典講究所開所に伴い入学、幹事松野勇雄の薫陶に浴す。明治19年(1886)皇典講究所卒業。翌明治20年(1887)山形県皇典講究所分所教授。明治23年(1890)皇典講究所書記、『古事類苑』編纂主任。明治26年(1893)駿河浅間神社宮司に転出。明治28年(1895)三嶋神社宮司。明治29年(1896)伊勢神宮禰宜、神宮司庁庶務課長。明治30年(1897)神宮皇学館幹事兼務、三重県皇典講究分所理事・講師、『古事類苑』編纂所理事。明治31年(1898)権宮司、神宮皇学館官長。明治33年(1900)神宮官制改正により少宮司。明治36年(1903)神宮皇学館官庁兼務。明治42年(1909)第57回神宮式年遷宮式に奉仕。神苑整備、神宮皇学館の官学昇格等諸事業を推進。明治44年(1911)大神神社宮司兼橿原神宮宮司。大正3年(1914)橿原神宮外苑拡張事業を指揮して勅祭社御待遇を実現。大正6年(1917)皇典講究所幹事長。翌大正7年(1918)専務理事に就任し、芳賀学長を補佐して大学令大学昇格(大正9年〔1920〕4月15日認可)と渋谷校地全学移転(大正12年〔1923〕)を指揮。傍ら自邸に学生寮「有為寮=ゆういりょう」を設け、樋口清之(教授、文学博士)ら子弟訓育に尽す。昭和4年(1929)1月上田万年(うえだかずとし)学長辞任に伴い学長事務取扱。3月加茂別雷神社宮司。昭和5年(1930)熱田神宮宮司、昭和8年(1933)井伊谷宮宮司及び貴船神社宮司(昭和10年〔1935〕)兼務、熱田神宮社殿修造事業に尽す。昭和14年(1939 )内務省神社局参与。昭和16年(1941)神祇院参与。昭和18年(1943)3月21日、東京・渋谷区松涛25番地の自宅で逝去、83歳。谷中墓地に眠る。神社調査会、全国神職会、大日本武徳会等の評議員、協議員、顧問を兼ねた。手前のやまももは30年祭記念樹。
 (校史資料課)





所在地 渋谷区東4-10-28 (国学院大学)

この雪見燈篭と月桂樹(図書館側)、奇妙な形をした岩は、大正12年(1923)に麹町区飯田町5丁目(現ちよだく飯田橋3丁目)から、現在の渋谷校地に全学移転した際、飯田町校舎から移されたものである。兎と、つきに叢雲(むらくも)、粋な小窓を周囲に配したゆきみ燈篭は、皇典講究所本部として建てられてあった、御殿造りの建物に付いていた小庭の片隅に置かれていたもので、岩もその付近にあったと伝えられている。その御殿造りの建物は、将軍御成の際の休憩所として、護国寺(文京区)境内に建てられてあったものを譲りうけて移築。明治40年(1907)6月、本館新築の際に2度目の解体にあったが、渋谷校地に移転後の大正13年(1924)、剣道部生みの親、石渡幸之輔氏(第1期)の指定寄付金(1350円)により、西側校地(現若木会館)付近に、剣道場「振武館」(柔道場併置)として再建。昭和38年(1963)、渋谷校地再開発の完了に伴い解体された。月桂樹は、豊田亨・渡部啓次郎両氏が卒業(明治43年、第18期師範部国語漢文科)記念樹として幼木を寄贈、飯田町校舎玄関前の馬車回しの植樹帯に植えられた。渋谷校地に移転後、前庭に移植され、関東大震災や戦災に遭わずに、渋谷の環境に慣れて成長を遂げてきたが、昭和41年(1966)9月24日の台風26号の暴風雨のために、根元から1mほどのところでポッキリと無残にも折れたことがあり、その後も雪の重みで幹が折れることもたびたびあったが、翌昭和42年(1967)春にはその傷んだ古い幹から発芽し、また、ひこばえが立派に成長して今に至っている。現在の樹齢はおよそ90年、豊田氏は福岡県、渡部氏は島根県の出身で、卒業後は両氏とも郷里に帰り、県立や私立高等学校校長などの教員生活を送られた。
 (校史資料課)


所在地 渋谷区東4-10-28 (国学院大学)

  芳賀矢一先生胸像



国文学者。慶応3年(1867)5月14日福井城下に生まれる。父の真咲は橘曙覧・平田鉄胤門下の国学者で、官社宮司、内務省官員を歴任した明治神社界の重鎮。明治17年(1884)東京大学予備門に入学。明治25年(1892)東京大学文科大学国文科卒業。大学院に進み、国学者で歌人の小中村清矩教授(皇典講究所教授兼務、号・陽春蘆=やすむろ)の薫陶に浴す。明治31年(1898)東京帝国大学文科大学助教授となり、博言学(言語学)講座を担当。高等師範学校教授を兼務。明治32年(1899)~明治35年(1902)官命により、文学史攷究法研究のため、夏目漱石らと共に渡欧。ドイツに滞在し、古典訓詁を旨とするドイツ文献学の理論と方法を学び、帰国後、それを基礎に、近世国学を旨とする日本文献学の樹立を提唱、精密な考証論的立場と概観的卓見をもって、今日に至る国文学の攷究に新しい方法論的基礎を与えた。明治35年(1902)教授に昇格。大正2年(1913)國學院商議員。大正7年(1918)東京帝国大学を退職、國學院拡張委員および学長に就任。大正9年(1920)懸案の大学令大学昇格と、大正11年(1922)~大正12年(1923)の渋谷校地への全学移転に尽し、國學院大學を国学研究の殿堂とすべく、教学の刷新に精励、三矢重松(教授、文学博士)をはじめ、多くの優れた研究者を育て、國學院大學中興の祖と称えられている。大正10年(1921)東宮職御用掛として摂政宮(のちの昭和天皇)に国典を進講した。大正11年(1922)東京帝国大学名誉教授。小学唱歌の制定と普及に尽し、自ら「我は海の子」「雪」「鎌倉」などを作詞、さらに国定教科書調査員、編纂委員長として国語教育の整備に貢献。その他政府関係委員会各種委員を兼ねた。名著『国民性十論』など、論著は優に800点を数え、主要なものは『芳賀矢一選集』(全7巻、國學院大學100周年記念出版)に収録。大正13年(1924)校歌を作詞。昭和元年(1926)宮内省御用掛。昭和2年(1927)2月に「自笑亭主人」「他笑亭主人」。和風雅号は「夢の舎主人」。この胸像は、先生の御高徳を永遠に追慕するため、10年祭に当たる昭和12年(1937)2月6日に除幕された。
 (校史資料課)




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