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東京都渋谷区の歴史
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所在地 渋谷区東4-10-28 (国学院大学)

  芳賀矢一先生胸像



国文学者。慶応3年(1867)5月14日福井城下に生まれる。父の真咲は橘曙覧・平田鉄胤門下の国学者で、官社宮司、内務省官員を歴任した明治神社界の重鎮。明治17年(1884)東京大学予備門に入学。明治25年(1892)東京大学文科大学国文科卒業。大学院に進み、国学者で歌人の小中村清矩教授(皇典講究所教授兼務、号・陽春蘆=やすむろ)の薫陶に浴す。明治31年(1898)東京帝国大学文科大学助教授となり、博言学(言語学)講座を担当。高等師範学校教授を兼務。明治32年(1899)~明治35年(1902)官命により、文学史攷究法研究のため、夏目漱石らと共に渡欧。ドイツに滞在し、古典訓詁を旨とするドイツ文献学の理論と方法を学び、帰国後、それを基礎に、近世国学を旨とする日本文献学の樹立を提唱、精密な考証論的立場と概観的卓見をもって、今日に至る国文学の攷究に新しい方法論的基礎を与えた。明治35年(1902)教授に昇格。大正2年(1913)國學院商議員。大正7年(1918)東京帝国大学を退職、國學院拡張委員および学長に就任。大正9年(1920)懸案の大学令大学昇格と、大正11年(1922)~大正12年(1923)の渋谷校地への全学移転に尽し、國學院大學を国学研究の殿堂とすべく、教学の刷新に精励、三矢重松(教授、文学博士)をはじめ、多くの優れた研究者を育て、國學院大學中興の祖と称えられている。大正10年(1921)東宮職御用掛として摂政宮(のちの昭和天皇)に国典を進講した。大正11年(1922)東京帝国大学名誉教授。小学唱歌の制定と普及に尽し、自ら「我は海の子」「雪」「鎌倉」などを作詞、さらに国定教科書調査員、編纂委員長として国語教育の整備に貢献。その他政府関係委員会各種委員を兼ねた。名著『国民性十論』など、論著は優に800点を数え、主要なものは『芳賀矢一選集』(全7巻、國學院大學100周年記念出版)に収録。大正13年(1924)校歌を作詞。昭和元年(1926)宮内省御用掛。昭和2年(1927)2月に「自笑亭主人」「他笑亭主人」。和風雅号は「夢の舎主人」。この胸像は、先生の御高徳を永遠に追慕するため、10年祭に当たる昭和12年(1937)2月6日に除幕された。
 (校史資料課)





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