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東京都渋谷区の歴史
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所在地 渋谷区東4-4-9 

 もとこのあたりにあった皇室の御料乳牛場の構内に常盤松と呼ばれた樹齢約400年、枝ぶりのみごとな松がありました。その松は源義朝の妾、常盤が植えたという伝説があり、また一説には世田谷城主吉良頼康の妾、常盤のことであるといいますが、はっきりしたことはわかりません。
 この近くにはかつて渋谷城があり、渋谷一族の金王丸は義朝、頼朝の2代に仕えた臣ですから、常盤御前が植えたという伝説が生まれたのでしょう。
 この碑は御料地になる以前に、その土地が島津家の持地だったことがあり、そのときに島津藩士によってたてられました。当時常盤松の代価壱千両といわれたほどの名木で、このあたりの地名であった常盤松町の起源となりました。
 東京都渋谷区教育委員会

     MONUMENT OF TOKIWA-MATSU
 Until 1966 this area was long known as Tokiwa-matsu because of a beautiful old pine tree(matsu)that stlld by thisstone monument.The original pine tree was 400years old when it deid shortly after world war Ⅱ.
 According to the inscription on this monument the pine tree was originally planted by lady tokiwa,famous in the old taled of Heike-story for her beauty and for being the mother of Minamoto Yoshitsune,who led the genji army to defeat the Heike family in the 12th century.
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所在地 渋谷区東4-9-1 (渋谷区立白根記念郷土文化館) 


白根記念
 渋谷区郷土博物館・文学館


松崎慊堂(まつざきこうどう)宅地跡

 松崎慊堂は江戸後期の儒者で、熊本に生まれ16歳で江戸に出て、幕府の昌平黌に学びました。32歳のとき掛川藩に招かれ藩政に参画しました。45歳のとき藩を辞し江戸に出て、このあたり羽沢に山荘を営み研究と門弟の教育に尽力しました。弘化元年(1844)74歳で没するまでここに住み、石経山房(せっけいさんぼう)と名付けました。
 慊堂の学問は朱子学が中心でしたが、経書一般にわたり国典にも詳しく、考証の面や詩文にも長じ、学識はひろく、識見も卓越していました。
 『慊堂日歴(こうづにちれき)』はこの山房の日記ですが、この時代の天候の模様や、村人の生活などを知るのに貴重な史料です。
 渋谷区教育委員会

 敷地内には『阿弥陀一尊図像板碑』、『力石』、『庚申塔』、『白松(はくしょう)』、『五輪塔・傘屋の碑・聖観音』があり、道を挟んで向かい側には『常盤松の碑』があります。


所在地 渋谷区東4-9-1 (渋谷区立白根記念郷土文化館) 

渋谷区指定有形文化財
 阿弥陀一尊図像板碑
     平成19年(2007)3月1日指定

 この図像板碑の材質は、秩父産の緑泥片岩です。板碑の形状は、山形の頂部、2段の切込み(二条線)、やや突出気味の額部、それ以下の身部、地価に差し込む基部からなります。その下方部(身部の一部と基部)を欠損しておりますが、中心をなす身部には、来迎印を結び蓮台上に立つ阿弥陀如来像が光条を放つ姿で線刻されています。その上方には日月や天蓋が彫りこまれ、蓮台下には、花瓶と香炉が前机の上におかれるという図像で、蓮台の左右に「月待供養」の文字が刻まれています。前机下には、紀年銘と思われる「文」という文字を中心にして、その左右に偈もしくは供養者名と考えられる文字が彫られていたことが痕跡から窺えます。
 板碑の形態や現存する図像板碑の類例から判断すると、15世紀後半頃にあたると考えられることから、「文」は文正か文明、あるいは文亀という年号が想定され、本図像板碑が室町時代中頃に制作されたものと推定できます。
 伝来については、不明な点が多いのですが、当区内に存在する板碑のなかで、図像を表すのはこの板碑だけであり、阿弥陀如来一尊と月待供養が刻まれた図像板碑は、現在のところ関東地方に十数点しか確認されていません。
 渋谷区教育委員会


                      五輪塔

所在地 渋谷区東4-9-1 (渋谷区立白根記念郷土文化館) 

 五輪塔は、中世以降につくられた墓で、これはもと神宮前1丁目(旧竹下町)にありました。
 銘文から正徳3年(1713)に建てられたことが判明し、蔵治義盛氏から区に寄贈されました。



                            傘屋の碑

 傘屋の碑は、もと千駄ヶ谷にあったといわれ、江戸時代に土地の傘問屋の仲間がつくったものと思われます。金王八幡宮から寄贈されました。


                    聖観音

 聖観音2基は、もと恵比寿橋から明治通りにでる左角にありました。言い伝えによるとある大名の奥方がこのあたりで急死し、その供養のために建てられたものといわれています。
 戦後、しばらく、ごみの中に埋まっていたのを、齋茂一氏が保管され、齋巌氏から区に寄贈されました。
 渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区東4-9-1 (渋谷区立白根記念郷土文化館) 

 江戸時代の民間信仰のひとつに、庚申講がありました。初期には、講中(グループ)が60日ごとに集まって念仏を唱え、長寿を祈る行事でしたが、のちにはレクリエーションに変わっていったようです。
 右側の2基は、桜丘町29番にあり、斎大治氏が大切に保管されていたものを、区に寄贈されました。
 渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区東4-9-1 (渋谷区立白根記念郷土文化館)

 松の仲間として分類された中国原産の植物で「しろまつ」とも呼ばれています。日本の松とは幹の皮の感じが違いますが、葉は似ています。しかし、個々の葉をよくみると、赤松や黒松が2本なのに対して、これは3本に分かれていることが特徴です。また、樹形も上に向かって合掌するような形になっています。全国的にみても非常に数の少ない稀種です。
 この松は、大正の末ごろ、中国北京から持ち帰ったもので、内田治氏のご好意により昭和53年(1978)1月、区に寄贈されました。
 渋谷区教育委員会




所在地 渋谷区東4-10-28 (国学院大学)

この顕彰碑は、桑原芳樹翁の遺徳を哀慕する人々の浄財をもって、10年祭を迎えた昭和27年(1952)10月23日、石川岩吉理事長・学長の撰文により除幕。翁は文久元年(1861)12月20日筑前宗像郡吉田村(現福岡県宗像郡玄海町吉田)に生まれ、旧姓小林、幼名芳三郎、のち芳樹。明治7年(1874)宗像神社に出仕。明治14年(1881)上京、神道事務局生徒寮に入り、翌明治15年(1882)皇典講究所開所に伴い入学、幹事松野勇雄の薫陶に浴す。明治19年(1886)皇典講究所卒業。翌明治20年(1887)山形県皇典講究所分所教授。明治23年(1890)皇典講究所書記、『古事類苑』編纂主任。明治26年(1893)駿河浅間神社宮司に転出。明治28年(1895)三嶋神社宮司。明治29年(1896)伊勢神宮禰宜、神宮司庁庶務課長。明治30年(1897)神宮皇学館幹事兼務、三重県皇典講究分所理事・講師、『古事類苑』編纂所理事。明治31年(1898)権宮司、神宮皇学館官長。明治33年(1900)神宮官制改正により少宮司。明治36年(1903)神宮皇学館官庁兼務。明治42年(1909)第57回神宮式年遷宮式に奉仕。神苑整備、神宮皇学館の官学昇格等諸事業を推進。明治44年(1911)大神神社宮司兼橿原神宮宮司。大正3年(1914)橿原神宮外苑拡張事業を指揮して勅祭社御待遇を実現。大正6年(1917)皇典講究所幹事長。翌大正7年(1918)専務理事に就任し、芳賀学長を補佐して大学令大学昇格(大正9年〔1920〕4月15日認可)と渋谷校地全学移転(大正12年〔1923〕)を指揮。傍ら自邸に学生寮「有為寮=ゆういりょう」を設け、樋口清之(教授、文学博士)ら子弟訓育に尽す。昭和4年(1929)1月上田万年(うえだかずとし)学長辞任に伴い学長事務取扱。3月加茂別雷神社宮司。昭和5年(1930)熱田神宮宮司、昭和8年(1933)井伊谷宮宮司及び貴船神社宮司(昭和10年〔1935〕)兼務、熱田神宮社殿修造事業に尽す。昭和14年(1939 )内務省神社局参与。昭和16年(1941)神祇院参与。昭和18年(1943)3月21日、東京・渋谷区松涛25番地の自宅で逝去、83歳。谷中墓地に眠る。神社調査会、全国神職会、大日本武徳会等の評議員、協議員、顧問を兼ねた。手前のやまももは30年祭記念樹。
 (校史資料課)





所在地 渋谷区東4-10-28 (国学院大学)

この雪見燈篭と月桂樹(図書館側)、奇妙な形をした岩は、大正12年(1923)に麹町区飯田町5丁目(現ちよだく飯田橋3丁目)から、現在の渋谷校地に全学移転した際、飯田町校舎から移されたものである。兎と、つきに叢雲(むらくも)、粋な小窓を周囲に配したゆきみ燈篭は、皇典講究所本部として建てられてあった、御殿造りの建物に付いていた小庭の片隅に置かれていたもので、岩もその付近にあったと伝えられている。その御殿造りの建物は、将軍御成の際の休憩所として、護国寺(文京区)境内に建てられてあったものを譲りうけて移築。明治40年(1907)6月、本館新築の際に2度目の解体にあったが、渋谷校地に移転後の大正13年(1924)、剣道部生みの親、石渡幸之輔氏(第1期)の指定寄付金(1350円)により、西側校地(現若木会館)付近に、剣道場「振武館」(柔道場併置)として再建。昭和38年(1963)、渋谷校地再開発の完了に伴い解体された。月桂樹は、豊田亨・渡部啓次郎両氏が卒業(明治43年、第18期師範部国語漢文科)記念樹として幼木を寄贈、飯田町校舎玄関前の馬車回しの植樹帯に植えられた。渋谷校地に移転後、前庭に移植され、関東大震災や戦災に遭わずに、渋谷の環境に慣れて成長を遂げてきたが、昭和41年(1966)9月24日の台風26号の暴風雨のために、根元から1mほどのところでポッキリと無残にも折れたことがあり、その後も雪の重みで幹が折れることもたびたびあったが、翌昭和42年(1967)春にはその傷んだ古い幹から発芽し、また、ひこばえが立派に成長して今に至っている。現在の樹齢はおよそ90年、豊田氏は福岡県、渡部氏は島根県の出身で、卒業後は両氏とも郷里に帰り、県立や私立高等学校校長などの教員生活を送られた。
 (校史資料課)


所在地 渋谷区東4-10-28 (国学院大学)

  芳賀矢一先生胸像



国文学者。慶応3年(1867)5月14日福井城下に生まれる。父の真咲は橘曙覧・平田鉄胤門下の国学者で、官社宮司、内務省官員を歴任した明治神社界の重鎮。明治17年(1884)東京大学予備門に入学。明治25年(1892)東京大学文科大学国文科卒業。大学院に進み、国学者で歌人の小中村清矩教授(皇典講究所教授兼務、号・陽春蘆=やすむろ)の薫陶に浴す。明治31年(1898)東京帝国大学文科大学助教授となり、博言学(言語学)講座を担当。高等師範学校教授を兼務。明治32年(1899)~明治35年(1902)官命により、文学史攷究法研究のため、夏目漱石らと共に渡欧。ドイツに滞在し、古典訓詁を旨とするドイツ文献学の理論と方法を学び、帰国後、それを基礎に、近世国学を旨とする日本文献学の樹立を提唱、精密な考証論的立場と概観的卓見をもって、今日に至る国文学の攷究に新しい方法論的基礎を与えた。明治35年(1902)教授に昇格。大正2年(1913)國學院商議員。大正7年(1918)東京帝国大学を退職、國學院拡張委員および学長に就任。大正9年(1920)懸案の大学令大学昇格と、大正11年(1922)~大正12年(1923)の渋谷校地への全学移転に尽し、國學院大學を国学研究の殿堂とすべく、教学の刷新に精励、三矢重松(教授、文学博士)をはじめ、多くの優れた研究者を育て、國學院大學中興の祖と称えられている。大正10年(1921)東宮職御用掛として摂政宮(のちの昭和天皇)に国典を進講した。大正11年(1922)東京帝国大学名誉教授。小学唱歌の制定と普及に尽し、自ら「我は海の子」「雪」「鎌倉」などを作詞、さらに国定教科書調査員、編纂委員長として国語教育の整備に貢献。その他政府関係委員会各種委員を兼ねた。名著『国民性十論』など、論著は優に800点を数え、主要なものは『芳賀矢一選集』(全7巻、國學院大學100周年記念出版)に収録。大正13年(1924)校歌を作詞。昭和元年(1926)宮内省御用掛。昭和2年(1927)2月に「自笑亭主人」「他笑亭主人」。和風雅号は「夢の舎主人」。この胸像は、先生の御高徳を永遠に追慕するため、10年祭に当たる昭和12年(1937)2月6日に除幕された。
 (校史資料課)




所在地 渋谷区東2-5-6 (渋谷氷川神社)

 この氷川神社の創建は、区内でも古く、かつての下渋谷村、下豊沢村の鎮守社でした。そのころの祭日は、9月29日で当日は境内で相撲が行われ、その相撲場は今も残っています。
 この行事を金王相撲といい、いつごろから始められたか明らかではありませんが、かなり古くから行われていたらしく、近郷はもちろん江戸の町からも見物人が集まり、凶年などには休業しようとしても見物人が集まるので、やむなく興行したといいます。
 ここで相撲をとったのは、本職の江戸の力士ばかりではなく、近郷の若者も大勢参加し、江戸時代の村のレクリエーションの場となっていました。
  渋谷区教育委員会





所在地 渋谷区東2-6-16

天台宗
 慧日山 薬王院 宝泉寺(寶泉寺)

渋谷区指定有形文化財
 木像阿弥陀如来立像
     平成19年(2007)3月1日指定

 本像は当寺の本尊で、両手の第一指と第二指を捻じる来迎印を表す阿弥陀如来立像です。像は頭の頂から両足の枘にいたるまで一本の樹木(針葉樹)から彫り出し、これを耳の後ろを通る線で前後に割り、頭部も首下でいったん割り離し、それぞれの内側に刳りを入れた割矧造という技法が用いられてます。
 端正に身を伸ばして立った姿は、玉眼につくらず彫眼とし、螺髪も小粒に彫出するという手法とともに、平安時代後期の作風を引き継いでいます。しかし、波型の髪際や着衣の細やかで明快な衣文の彫法には、鎌倉時代後期の洗練された表現が際立っています。とくに左肩に大きく折り返してかかる衲衣の纏い方や、体部全面を覆うその装飾的に整えられた衣文表現は、13世紀後半頃の傾向をよく伝えるものといえます。お顔にわずかな整形を加えているほか、袖の大部分を補修しているものの、当初の像容を損なわずに伝存した本像は、区内に伝わる秀れた鎌倉時代の作例として重要です。
 渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区東2-9-1

 温故学会所蔵文化財
1、重要文化財
 群書類従版木  17,244枚
 盲目の国学者・塙保己一が40余か年の苦心のすえ完成したもの
1、東京都重宝
 群書類従跋版木      4枚
 続群書類従目録版木   70枚
 徒然草(上下)版木    79枚
 元暦万葉集(巻1、2、7) 75枚
 


   『御江戸図説集覧』等 版木
 『御江戸図説集覧』をはじめとする、江戸図・刀剣・絵画・易学・漢字学等に関するもの20点の版木1094枚です。それぞれの分野の第一人者が江戸・明治・大正時代に編纂し、当代一流の版木師が彫刻したものです。
 版木はすべて木質の堅い桜材で、両面に文字や絵図が彫り込まれています。摺る時は、版木に墨を塗って染み込ませ、その上に和紙をのせ、バレンで万遍なく圧力をかけて仕上げます。
 ここにある版木は、日本の印刷文かを支え、校正に伝えてきた貴重な文化財です。
  渋谷区教育委員会



建物入口脇には『塙保己一像』があります。


所在地 渋谷区東2-9-1 (温故学会会館)   

盲学者 塙保己一 はなわほきいち
     延享3年(1746)~文政4年(1821)

 塙保己一は、延享3年(1746)5月5日、今の埼玉県児玉町保木野に生まれた。父は荻野宇兵衛、母はきよ。名は寅之助。7歳の時、肝の病により失明、名を辰之助とかえ、一名多聞房となのる。12歳の時、母をうしなう。
 宝暦10年(1760)に江戸へ出て、雨富須賀一検校の門人となる。時に15歳。名を千弥と改め、『般若心経』読誦千日の願を立て、衆分に至らんと決意する。その間、師匠から鍼・灸・按摩などを習うが、いっこうに上達しなかったという。それに引きかえ隣家にすむ旗本松平乗尹から手ほどきをうけた学問は大いに進み、その好学心に感心した乗尹のはからいで、萩原宗固・山岡浚明らから、文学・律令・神道・医学などを学ぶ。
 宝暦13年(1763)に衆分に進み、名を保木野一とし、生まれ故郷の保木野村へ思いを寄せる。明和3年(1766)21歳の春、父と共に関西に旅行したとき、京都の天満宮に詣で、菅公を守護神と心に決める。明和6年(1769)、宗固のすすめで加茂真淵の門に入り、六国史を学ぶ。真淵に就いた期間はわずか半年であったが、師から得た学問は貴重な財産となる。
 安永4年(1775)、勾当に進んだのを機に、師・雨富検校の生家の苗字をもらい塙姓を称し、名を保己一と改める。『文選』に「己を保ち百年を安んず」とあるのを出典とした名で、100歳までも生きて目的を遂げたいとの意味にも読める。安永8年(1779)には、散逸のおそれのある1巻、2巻の貴重な書物を集めて版行しようと、『群書類従』の編集、刊行を企図し、これ以降足かけ41年の歳月をかけ、文政2年(1819)に670冊の刊行を完了した。
 この間、天明3年(1783)には検校にのぼり、天明5年(1785)には水戸藩の彰考館に招かれ、『参考源平盛衰記』の校訂にあずかり、続いて『大日本史』の校正にも参画する。寛政5年(1793)には、幕府から和学講談所の設立を許され、建設費350両の借用もかない、年内に完工する。この後、版木倉庫の建設費、諸書の編集、刊行費も幕府から借用し、さらに大阪の鴻池(草間)伊助から1500両もの大金を借り入れ、事業を推進する。寛政11年(1799)には、堂上諸家の家記類の書写を計画、またこれまで六国史の中で逸書であった『日本後紀』を発見、ただちに刊行し、ここでいよいよ菅公の志を継いで六国史に続く史料の編集に着手する。塙史料とよばれるこの編集事業は現在、東京大学史料編集所の「大日本史料」編集事業に継承されている。
 文政4年(1821)2月、総検校に昇進。この年9月12日逝去。76歳。法号を和学院殿心眼智光大居士という。墓は東京都新宿区若葉2丁目愛染院にある。明治44年(1911)6月、特旨をもって正4位の位記を追贈された。

    『群書類従』
 総数1,273種(現在1,277種)の貴重な書物を収録、これを25武門に分類し、670冊(現在665冊、目録1冊)に仕立てた大叢書。この叢書によって、わが国の貴重な書物が永久に散逸から救われ、いつでも、だれでもが利用できるようになった恩恵は大きい。版木はすべて桜材で、総計17,244枚あり、昭和32年(1957)に国の重要文化財に指定され、版木倉庫内に完全保管されている。このほか『徒然草』『元暦校本万葉集』ほか版木(東京都有形文化財・典籍)、及び『御江戸図説集覧』ほか版木(渋谷区重要文化財)も保管されている。
 三重の障害をもつヘレン・ケラーは、「私は子どものころ、母親から塙保己一先生をお手本にしなさいと励まされて育った」と語っている。そのケラーが昭和12年(1937)4月26日に本会を訪ね、塙保己一の銅像と版木に手を触れ、盲学者への感懐を深くしている。
 『群書類従』は、全世界に共通の文化遺産であり、塙保己一の業績を永遠に伝えるあかしである。

    温故学会
 塙保己一の遺志を継承し、その遺業を大成する目的で、明治42年(1909)末に創立する。大正11年(1922)に社団法人組織に改め、文部省認可の公益法人となる。創立発起人=塙保己一曾孫塙忠雄・子爵渋沢栄一・宮中顧問官井上通泰・文学博士芳賀矢一。

   〔主要事業〕
(1)『群書類従』ほか版木の保管と摺立
(2)塙保己一の著書及び関係図書の発行
(3)塙保己一に関する研究と成果の発表
(4)塙保己一記念文化史料館の経営
(5)塙保己一生誕・周年忌記念大会の開催
(6)塙保己一展、講演会、諸行事の開催
(7)一般人、学生、生徒、児童の参観受入れ
(8)全国盲・ろう学校、点字図書館との連携
(9)全国研究機関、図書館等との情報交換
(10)その他、塙保己一の顕彰にかかわる事業



所在地 渋谷区東2-10

 服部南郭は、江戸中期の儒学者。漢詩人で幼名を勘助、のち元喬といい字を子遷、書斎を芙蕖館と称しました。
 この場所は、南郭の別邸があったところで邸前にある坂道は、昔から南郭坂あるいは富士見坂と呼ばれてきました。
 南郭は、天和3年(1683)に京都に生まれ、16歳の時に和歌と絵画をもって江戸の柳沢吉保に仕え、また、荻生徂徠の門人となって、古文辞学と詩を学びました。34歳の時、柳沢家を辞し、ここの別邸で塾を開いて在野の人となり、もっぱら漢詩文に親しみ、後継者の育成に努めました。宝暦9年(1759)没。享年77歳。
 著書に「南郭文集」「大東世語」「南郭先生燈下書」などがあります。
 渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区東3-3-3

渋谷区立広尾小学校 
  旧東京市立広尾尋常小学校


 関東大震災によって被災した都内の区立小学校は、震災復興事業の大きな柱として、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造りの校舎に建て替えられるようになった。



 昭和初期の区立小学校校舎には2つの傾向があった。1つは、インターナショナル・スタイル(国際建築様式)と呼ばれる装飾性の少ない機能主義的な建物で、他の1つは、この小学校のような壁面に装飾性を加味した建築である。



 特に、この小学校は、コの字型の校舎配置の東北隅部に高い塔をあげている。この塔は当時消防署の望楼を兼ねて建てられたことを示している。この望楼の意匠と玄関廻りの装飾に当時流行していた表現主義のデザインがみられる。




設計者 東京市土木局建築課
建築年 昭和7年(1932)


所在地 渋谷区東3-10-13

福昌寺



 境内には、『阿弥陀石棺仏』、『花供養塔』があります。






所在地 渋谷区東3-10-13 (福昌寺)

 石棺仏とは、古墳時代の石棺を転用して、そこに仏像を彫り込んで路傍に立て庶民が礼拝の対象としたものです。本石棺仏は、古墳時代中後期頃の家型石棺の蓋を利用しており、その内側は長方形に彫り窪められています。中心部に表されるのは蓮台上に立つ阿弥陀如来像で、船形光背を負い、来迎印を結ぶ姿が浮彫りされています。現存する阿弥陀石棺仏の多くが坐像であり、このような立像は稀な例になります。
 この石棺蓋の材質は、兵庫県高砂市・加西市付近を産地とする播磨竜山石と考えられます。石棺仏が彫られた時期は、その像容や年紀を持つほかの作例から見て、南北朝時代頃と推定されます。現状は石棺蓋の上端部に物が奉置されるような窪みが穿たれていますが、阿弥陀如来像や蓮華座に破損や摩滅等がほとんど見られず、保存状態は比較的良好です。
 この阿弥陀石棺仏は、和歌山県那賀郡から運ばれて来たものと伝えられ、昭和25年(1950)頃に造園業を営む東光園が入手して当寺に寄進したもので、東京では本例のみという珍しいものです。
 渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区東3-10-13 (福昌寺)

 花は天地自然の美しき心を姿色香にあらわし 人の世の喜怒哀楽につけて その人の心を和らげ慰め励まし無量の福楽を与え来れるものなり
 その花を己が商とすることを天職と思い 花を愛し 花と天地自然に感謝しつヽ生花を商う 願心の施主横山サダ及び同業の有志相寄りて人々の心を慰め散り行ける多くの花の命に感謝し慰霊せんものと 渋谷山福昌寺の聖域をトし 茲に供養塔を建立し 併せて施主家の家門興隆同業有志各家の繁栄 業界の発展を祈念するものなり
 昭和丙辰51年4月吉日 花供養塔建立協賛会


所在地 渋谷区東3-17

 この橋供養碑は、寛政11年(1799)にたてられた数少ない珍しいものです。上部の青面金剛像のほかに、四面すべてに、橋講中世話役や万人講及び、個人の名が多数刻まれています。
 それらの人びとの地域をみますと、渋谷はもとより麹町、赤坂、芝、麻布、四谷、大久保、池袋、市ヶ谷方面から、目黒、中野、世田谷、荻窪といった広い範囲にわたっています。
 こうしたことからみますと、庚申橋を通る道は、江戸時代には重要な交通路であったことがわかります。
 渋谷区教育委員会




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