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東京都渋谷区の歴史
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所在地 渋谷区神宮前

 神宮橋は大正9年(1920)、明治神宮の造営時に山手線を跨いで架けられ、当時としては珍しく、鉄骨を使用したコンクリートの橋桁であった。橋の装飾は最も苦心したところで、御影石の高欄部分には黒松を吹寄植して橋を渡る人々に下を走る列車を気付かせないよう配慮すると共に橋詰には石燈籠を現代化した親柱を建てた。
 多くの人々に親しまれてきたこの橋も、寄る年波には勝てず、60有余年間その使命を十分に果たし、新しい橋に架け替えられた。
 新しい橋は古い橋の姿をできるだけ損なわないように高欄は御影石を使って再現し、親柱は当時の石材を補修してそのままの形に復元した。そして、歩道部分の舗装には御影石を組合せてその中に渋谷区の木「けやき」をデザインして配置し、新しい原宿の町にふさわしく明るい感じとしたものである。
 昭和57年(1982)9月  東京都
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所在地 渋谷区神宮前2-2

 ここのゆるい勾配の坂を勢揃坂せいぞろいざかといい、渋谷区内に残っている古道のひとつです。
 後三年の役 永保3年(1083)に八幡太郎義家が奥州征伐にむかうとき、ここで軍勢を揃えて出陣して行ったといわれ、この名が残されております。
 このとき従軍した武士のなかに、桓武平氏良文の嫡流にあたる秩父十郎武綱(渋谷氏等の祖)が参陣して、手柄をたてたという伝説があります。
 真偽についてはもちろんわかりませんが、区内に伝わる源氏に関する伝説のひとつとして注目されます。
 渋谷区教育委員会



所在地 渋谷区神宮前3-8-9

  妙円寺(穏原小学校旧跡)
 この道路の向かい側に、かって穏原小学校がありました。
 この学校は、妙円寺などの寺子屋の児童を収容し、穏田・原宿両村の連合公立小学校として、明治14年(1881)に、当時の原宿七十番地に開校したもので、当初の児童数は24名にすぎませんでした。しかし、付近の住宅化が進むにつれ児童数も増加したため、明治21年(1888)にこの場所に校舎を新築し、移転してきました。
 その後、校地が再び狭くなり、明治33年(1900)に原宿百七十番地に移転、さらにまた、現在原宿中学校がある場所に移りました。
 この間、大正11年(1922)には分教場(現在の神宮前小学校)を設け、めざましい発展を遂げたのですが、昭和20年(1945)5月の空襲によって校舎を焼失し、児童数も激減したため、在籍児童を神宮前小学校に移し、昭和21年(1946)3月、65年にわたる歴史の幕を閉じましたが、この間はぐくまれた建学の清神は、多くの卒業生によって受けつがれております。
 渋谷区教育委員会



所在地 渋谷区神宮前5-5 (表参道コート)

  大山史前学研究所と大山柏邸跡
 昭和20年(1945)5月の大空襲によって焼失するまで、この場所には大山柏(元公爵・文学博士)の邸宅と主催する大山史前学研究所がありました。

 大山柏(1889~1969)

 柏は、明治の元勲大山巖公爵の次男として明治22年(1889)6月、東京に生まれ、兄の高が早世したことにより家督を継ぎました。軍人の家柄に生をうけた柏は、兄亡きのち、軍人の道を歩むことになります。大正12年(1923)に近代戦史研究の名目でヨーロッパに留学し、あわせて考古学の研究も行っています。


                      神奈川県勝坂遺跡出土土器

 大正13年(1924)に帰国した柏は、自邸内に史前研究室(のちに大山史前学研究所)を設立し、史前研究会(のちに史前学会)を組織しました。大山史前学研究所は、遺跡の調査研究、雑誌の刊行、出土品の展示、約一万冊にもおよぶ蔵書の閲覧など、現在の国公立研究所にも劣らない機能を持ち、戦後の日本考古学の基礎を築いたばかりでなく、そこに集った多くの若い研究者は、現在の日本考古学の躍進に寄与しています。

 研究所蔵 欧州旧石器

 戦後の柏は、西那須の別荘に移り住み、昭和44年(1969)8月20日に他界しました。
 渋谷区教育委員会

 甲野勇

  大山史前学研究所の由来と意義
 大山史前学研究所は1929年(昭和4年)に公爵大山柏によって設立された私設の考古学研究所である。大山は1923年(大正12年)にドイツに留学し、ベルリン大学で史前学を学び、帰国後邸内に私財を投じて大山史前学研究所を開設した。その母体は邸内に開設されていた史前研究室である。さらに史前学会を組織して日本の新石器時代を中心とした学術雑誌「史前学雑誌」を刊行するとともに100ヶ所以上の縄文時代の遺跡を調査し、その成果を次々に学界に発表した。

 宮坂光次

 大山らの発掘した主な遺跡には青森県是川遺跡・宮城県沼津貝塚・茨城県広畑貝塚・上高津貝塚・千葉県加曽利貝塚・遠部台遺跡・埼玉県真福寺貝塚・神奈川県子母口貝塚・勝坂遺跡などがある。

 池上啓介

 研究所には甲野勇、宮坂光次、池上啓介、竹下次作、大給貴尹らの所員がおり、研究所の発掘調査や報告書の作成と史前学界の活動を支えた。1943年(昭和18年)には貴族院議員であった大山柏も北海道根室・室蘭守備隊に出征し、研究所は閉鎖状態となり、1945年(昭和20年)5月25日の空襲によって多くの貴重な文献や資料は邸宅や研究所とともに焼失した。

 竹下次作

 しかし、戦前の皇国史観による歴史学への弾圧が続くなかで、大山柏の研究は純粋な科学的精神によって貫徹され、かつ今日の旧石器時代、縄文時代の研究においても重要なものが多く、日本考古学の歴史のなかに占める意義はきわめて大きいものがある。
 2001年8月20日 史学博士 阿部芳郎

 大給尹


所在地 渋谷区神宮前4-9-5 (オカニワ表参道ビル)

  徳富蘆花住居跡
 徳富蘆花は、明治33年(1900)10月に、逗子からここに移ってきました。明治38年(1905)12月再び逗子に移るまでの間に「思出の記」を完成させ、また「黒潮」「慈悲心鳥」「霜枯日記」などの作品を次々に発表しました。
 平成17年(2005)度 渋谷区教育委員会

 


所在地 渋谷区神宮前5-26-6

  穏田神社
 
河野カタ女史は漢方医薬の大家にて敬神の念厚く特に当穏田神社には日参数年その間戦災に依る境内の荒廃に心寄せられ拝殿、神楽殿、稲荷社、渡橋等ご奉納の篤志に対し氏子総代相はかり胸像を建立永遠に女史の志を彰するものである
 昭和40年(1965)6月吉日
 穏田神社氏子総代  題字は明治神宮宮司 甘露寺受長氏書
 









 穏田神社境内には『河野カタ女史像』があります。


所在地 渋谷区神宮前5-26-6 (穏田神社)

  河野カタ女史像



河野カタ女史は漢方医薬の大家にて敬神の念厚く特に当穏田神社には日参数年その間戦災に依る境内の荒廃に心寄せられ拝殿、神楽殿、稲荷社、渡橋等ご奉納の篤志に対し氏子総代相はかり胸像を建立永遠に女史の志を彰するものである
 昭和40年(1965)6月吉日
 穏田神社氏子総代  

  題字は明治神宮宮司 甘露寺受長氏書


所在地 渋谷区神宮前6-25-12

曹洞宗
 慈雲山 長泉寺



 長泉寺境内には『石仏群』があります。


所在地 渋谷区神宮前6-25-12 (長泉寺)

  石仏群 
 墓地の奥には、二百数十体の石仏が並んでいます。大部分は地蔵ですが、そのほかに聖観音をはじめ各種の観音像などが見られます。いずれも民間で作られたと思われる素朴な石仏で、かつてこの付近に建てられてあったものが宅地造成などの折に、ここへ集められてきたということです。
 石仏に掘り込まれた年号から、このあたりにはかなり古くから地蔵信仰や観音信仰があって、村びとたちのあいだで講(グループ)が作られていたことがわかります。講では特定の日に持ち回りで家に集まり、仕事を休んで念仏をとなえたり、酒食を提供して語りあったり、子供に菓子を与えたりして過しました。楽しみの少なかった当時の村では貴重な娯楽のひとつでした。
 渋谷区教育委員会 
 





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