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東京都渋谷区の歴史
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所在地 渋谷区道玄坂2-10 (道玄坂) 

  道玄坂道供養碑

渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(1525年)その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだ。それでこの坂を道玄坂というといわれている。江戸時代ここを通る青山街道は神奈川県の人と物を江戸に運ぶ大切な道だった。やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると渋谷附近はひらけだした。近くに住んだ芥川龍之介・柳田國男がここを通って通学した。坂下に新詩社ができたり、林芙美子が夜店を出した思いでもある。これからも道玄坂は今までと同じくむしろ若者の街として希望と夢を宿して長く栄えてゆくことだろう。   
  樋口清之
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所在地 渋谷区道玄坂2-10 (道玄坂) 

与謝野晶子歌碑

  母遠うて瞳したしき西の山
     相模が知らず雨雲かゝる




 歌人与謝野晶子が詠んだこの短歌は、明治35年(1902)4月に発行された東京新詩社の機関誌『明星』に収められています。
 晶子は、前年に、郷里の大阪府の堺から単身上京し、渋谷道玄坂の近傍に住んで、与謝野寛と結婚しました。処女歌集の『みだれ髪』も刊行しています。詩歌の革新をめざした寛との新婚生活でしたが、晶子にとって、身心の負担は思いもよらず大きなものでした。
 歌人として、また妻としての多忙な日々のひとときに、住まいから近い道玄坂の上にしばしばたたずんで、西空の果てに連なる相州の山々を眺めていたのです。その山々の方向にあたる遠い堺の生家を思い、母親を懐かしんだのでした。
 みずから生家を離れて、新しい生活を渋谷で始めた晶子が、当時ひそかに抱き続けていた真情の一端を、この一首の短歌は語っているのです。
 なお、この歌碑に彫られている筆跡は、晶子自身の書簡による集字です。
  渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区神宮前2-2

 ここのゆるい勾配の坂を勢揃坂せいぞろいざかといい、渋谷区内に残っている古道のひとつです。
 後三年の役 永保3年(1083)に八幡太郎義家が奥州征伐にむかうとき、ここで軍勢を揃えて出陣して行ったといわれ、この名が残されております。
 このとき従軍した武士のなかに、桓武平氏良文の嫡流にあたる秩父十郎武綱(渋谷氏等の祖)が参陣して、手柄をたてたという伝説があります。
 真偽についてはもちろんわかりませんが、区内に伝わる源氏に関する伝説のひとつとして注目されます。
 渋谷区教育委員会



所在地 渋谷区神宮前3-8-9

  妙円寺(穏原小学校旧跡)
 この道路の向かい側に、かって穏原小学校がありました。
 この学校は、妙円寺などの寺子屋の児童を収容し、穏田・原宿両村の連合公立小学校として、明治14年(1881)に、当時の原宿七十番地に開校したもので、当初の児童数は24名にすぎませんでした。しかし、付近の住宅化が進むにつれ児童数も増加したため、明治21年(1888)にこの場所に校舎を新築し、移転してきました。
 その後、校地が再び狭くなり、明治33年(1900)に原宿百七十番地に移転、さらにまた、現在原宿中学校がある場所に移りました。
 この間、大正11年(1922)には分教場(現在の神宮前小学校)を設け、めざましい発展を遂げたのですが、昭和20年(1945)5月の空襲によって校舎を焼失し、児童数も激減したため、在籍児童を神宮前小学校に移し、昭和21年(1946)3月、65年にわたる歴史の幕を閉じましたが、この間はぐくまれた建学の清神は、多くの卒業生によって受けつがれております。
 渋谷区教育委員会



所在地 渋谷区千駄ヶ谷1・2

  観音坂
 坂名は、真言宗観谷山聖輪寺の本尊であった如意輪観音像に由来します。観音は当寺の開山とされる行基の作と伝えられていましたが、残念ながら戦災によって焼失してしまいました。「江戸名所図会」によると、身の丈は三尺五寸で、両眼は金でつくられていたといいます。
 平成18年(2006)度 渋谷区教育委員会



所在地 渋谷区千駄ヶ谷1-23

  東京新詩社跡
 東京新詩社は、明治37年(1904)11月に、中渋谷からこのあたりの千駄ヶ谷村大通りに移りました。与謝野晶子は詩歌集「恋ごろも」などを刊行し、寛はしきりに短歌会を催すなどして、機関誌「明星」も隆盛を極める時期がありましたが、百号で廃刊となり、明治42年(1909)1月に、神田区の東紅梅町に移ってゆきました。
  渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区千駄ヶ谷2-24-1

 法雲山 仙寿院

 当山は、正保元年(1644)紀伊の太守徳川頼宣の生母お萬の方(法名・養珠院妙紹日心大姉)の発願により里見日遥(安房の太守里見義康の次子)を開山として創立された。従って江戸期は、紀伊徳川家、伊予西条松平家の江戸表における菩提寺祈願所として、十万石の格式をもって遇せられ、壮大な堂宇と庭園は江戸名所の1つに数えられ、新日暮里(しんひぐらしのさと)とも呼ばれていた。
 お萬の方は、徳川家康の側室で紀伊徳川家の祖、頼宣水戸徳川家の祖、頼房の生母でもあり、また法華経の信仰篤く日蓮宗門の大外護者として知られている。
 開山里見日遥(一源院日遥上人)は、後に飯高檀林へ招かれ多くの法弟を育成し、更に越後村田妙法寺へ瑞世した。日遥を祖とする千駄ヶ谷法類は、当山を縁頭寺とする。
 江戸期において隆盛を誇った当山も明治維新の変革によって衰微し、明治18年(1885)には火災によって全山焼失、その後里見日玞(體遵院日玞上人)により復興されるも、昭和20年(1945)戦災で再び全山焼失した。更に昭和39年(1964)東京オリンピックの道路工事などによって寺観は一変したが、昭和40年(1965)には本堂、書院を再建、昭和59年(1984)には書院、客殿を増改築し、昔日には遠く及ばずながら復興し現在に至っている。
 昭和63年(1988)10月吉日 誌  当山



渋谷区指定有形文化財
 銅板日遥墓誌
     平成17年(2005)3月24日指定

 本墓誌は、銅板に塗金を施したもので、近世に作製されたものです。墓誌銘には、当院の開山である日遥上人(号一源院。安房ノ太守里見義康の次男。延宝5年〔1677〕12月7日遷化)生涯と事績を表裏に三十二行、約八百字にわたって刻んでいます。これによれば、開山日遥の遷化後まもない延宝6年(1678)2月7日に日遥の門弟で当院第3世となった日逢上人が記したものであることがわかります。
 昭和38年(1963)に行われた道路拡幅工事のとき、墓地の改葬を行った際、開山墓石下より発見されました。仙寿院は正保元年(1644)に赤坂の紀伊徳川屋敷より現在地へ移転してきた寺院ですが、本墓誌は、その歴史と開山日遥上人に関する歴史資料として貴重です。
 渋谷区教育委員会


所在地 渋谷区千駄ヶ谷2

 「榎坂」とは、ここから右手に瑞円寺の門前へ向かって登る細い坂道のことです。かって、榎の巨木があったことから「榎坂」と名づけられたといわれており、現在は鳩森八幡へ向かうこの道の右手に商売繁盛・縁結び・金縁・子授かりや子供の病気平癒などの信仰を集める榎稲荷があります。


所在地 渋谷区千駄ヶ谷5-22

   仰徳国民学校(千駄ヶ谷第二尋常小学校)跡
 明治39年(1906)6月28日、千駄ヶ谷第二尋常小学校が第4学年までの児童262名、教師4名の組織でこの地に開校しました。
 その後、明治41年度から義務教育年限が6年に延長され、更に、昭和16年(1941)4月1日から国民学校令が施行され、校名を仰徳国民学校と変更しました。
 昭和20年(1945)5月24日、戦災によって校舎が全焼し、翌昭和21年(1946)3月31日、戦災後の都内国民学校の整理統合によって廃校となり、明和国民学校(現、鳩森小学校)に統合されました。地元ではその廃校が惜しまれましたが、新しい時勢に対応し、40余年にわたって卒業生4600余人を送り出した輝かしい歴史を閉じました。
 渋谷区教育委員会



所在地 渋谷区千駄ヶ谷6-1-1

  新井白石終えんの地
 新井白石は6代将軍徳川家宣7代家継と2代の将軍に儒官として仕えました。学者としては先例のない政治への参加と、学問の大きな業績によって知られています。しかし、吉宗が8代将軍になると急速にその地位を失い、城中の御用部屋はもとより、小川町の賜邸も取り上げられてしまいました。
 白石が享保2年(1717)幕府からこの土地を与えられ、享保6年(1721)移り住んだ頃は、周囲は、すべて青々とした麦畑でした。
 ここで白石は失意の日々をおくったのですが、一方では多くの著作を行いました。絶筆となった『采覧異言』の修訂が終わった5、6日後の享保10年(1725)5月19日、69歳で戦乱に富んだ一生を終わりました。
 渋谷区教育委員会 


所在地 渋谷区千駄ヶ谷1-1-24 (鳩森八幡神社)

 昭和61年(1986)1月、社団法人日本将棋連盟(当時の会長 大山康晴十五世名人)より、山形県の駒師香月氏の製作による、高さ一米二十糎の欅製の大駒が奉納された。この縁により、同昭和61年(1986)11月将棋の技術向上を目指す人々の守護神とし、更に将棋界の繁栄を願って、日本将棋連盟と神社が協力し、この大駒を納める六角の御堂を建立した。御堂の六角は天地四方を表わし、屋根の上の飾り金物は将棋盤の足の形、つまりくちなし(梔子)の実の形をしている。くちなしは口無しに通じ、助言無用の戒めからきていると古くから言い伝えられている。
 室内に安置された大駒は、御影石の将棋盤の上に立ち、その奥に氏神の八幡神が祀られている。
 毎年年頭に、この御堂の前で祈願祭が行われる。将棋上達を祈願する人は、いつでもその夢を絵馬札に托して奉納することができる。参拝者は棋力向上の願いがかなえられ、よろず勝運に恵まれると言われている。
 平成6年(1994)12月吉日
     鳩森八幡神社 社団法人日本将棋連盟


所在地 渋谷区千駄ヶ谷1-1-24 (鳩森八幡神社)

東京都指定有形民俗文化財
 千駄ヶ谷の富士塚
     昭和56年(1981)3月12日指定

 この富士塚は寛政元年(1789)の築造といわれ、円墳形に土を盛り上げ、黒ばく(富士山の熔岩)は頂上近くのみ配されている。山腹には要所要所に丸石を配置しており、土の露出している部分には熊笹が植えられている。頂上には奥宮を安置し、山裾の向って左側に木造の里宮の建物がある。
 頂上に至る登山道は正面に「く」の字形に設けられ、自然石を用いて階段としている。七合目には洞窟がつくられ、その中には身禄像が安置されている。塚の全面には池があるが、この池は塚築造のため土を採掘した跡を利用したもので、円墳状の盛り土、前方の池という形は江戸築造の富士塚の基本様式を示している。
 この富士塚は大正12年(1923)の関東大震災後に修復されているが、築造当時の旧態をよく留めており、東京都内に現存するものではもっとも古く、江戸中期以降、江戸市中を中心に広く庶民の間で信仰されていた富士信仰の在り方を理解する上で貴重な資料である
 昭和57年(1982)3月31日建設  東京都教育委員会



   富士山
 江戸時代に富士信仰の発達につれて、各地に浅間(せんげん)神社を祀ることがはやり、それとともに富士山の模造を築き、それに登山して参拝する風習が行われました。これは旅行の不便な時代に、日本人の長い間の富士山への信仰を手近にはたす風習としておこったものです。
 ここの富士山がいつ築かれたかはkkりしておりませんが、『江戸名所図会』天保7年(1836)には富士山がえがかれていて、富士と浅間社の名が記入されています。
 また『東都歳時記』天保9年(1838)には6月3日に千駄ヶ谷八幡宮境内富士参(まいり)と書かれていて、江戸時代すでにかなり知られていたことがわかります。
     渋谷区教育委員会



所在地 渋谷区千駄ヶ谷1-13-11


真言宗豊山派
 観谷山 福聚院 聖輪寺

 本尊
如意輪観世音菩薩(伝行基菩薩作)
 開基
行基菩薩 神亀2年(725年)
 中興開山
法印宥光 明暦3年寂(1657年)
 総本山
長谷寺 奈良県桜井市初瀬
慶安4年(1651年)長谷寺の末寺となる
 祖師
宗祖 弘法大師(空海)ご宝号「南無大師遍照金剛」
中興祖 興教大師(覚鑁)ご宝号「南無興教大師」
派祖 専誉僧正ご宝号「南無専誉僧正」
 史蹟
僧誉法印の墓 宝永4年寂(1707年)
当山第三世 甲州流兵学者「明良洪範」の著者
 札所
近世三十三世観音札所 第二十番
御府内八十八ヶ所 第十番 阿波国切幡寺の移し



   聖輪寺観音略縁起
神亀2年(725)5月、行基菩薩北越遊行の時、此地に暫く休息されました。谷の中より光がさし、聖如意輪観音が出現し、「此地は我に因縁あり、汝よろしく我姿を彫刻し、来世の衆生に結縁せよ、広く利益を与える事であろう」と申され、大きな古木の本に消えました。行基菩薩は感激し、その古木を加持し、三尺五寸の如意輪観音像を彫み石の上に安置しました。
これ故に山号を観谷山、寺号を聖輪寺と号することとなった。
文明(1469)の頃、渋谷氏一門の何某、この尊像を深く信仰し、その家は日々に栄え、子孫繁栄、富貴自在の身分となり、世の人々より黄金長者と呼ばれるようになった。同氏は堂宇を営造しこの尊像を崇いました。青山長者丸という所はこの黄金長者の跡である。
天正(1573)の頃、この里の童達が集まりこの尊像を前の川へ運び、共に水浴びして遊びました。不思議な事に、ある夜、里人の夢の中に尊像が現れ「善哉善哉、童達毎日、吾を浴びせそ縁により、一切の病難から救うであろう、汝ら疑う事なかれ」と告げました。その頃、国中に疱瘡が流行しましたが、この里の人々は病気から免れ、これ偏に観音の大悲護念のしるしであると、この時より尊像の扉を閉め秘仏として崇め奉りました。
又、慶弔3年(1596)3月、盗賊が忍び入り、この観音の双眼は、黄金であると伝へ聞き、鑿で取り去ろうとした時、守護神の罰か、自然に自ら所持していた鑿に貫かれて死んだ。甲賀組の高橋四郎左衛門が親たりにこれを見、観音の霊験に驚き堂宇を再興して敬った。
これより観音は「目玉の観音」「千駄ヶ谷観音」と呼ばれ信仰を集めた。
『文政寺社書上』観谷山聖輪寺観音略縁起より
 宝暦5年(1755)豊山小池坊僧正信怒録
尚『江戸砂子』に、「この江戸において千余歳を数える霊場は浅草観音と当寺である」と記されている。

 境内には『庚申塔』があります。


所在地 渋谷区千駄ヶ谷1-13-11 (聖輪寺)

 庚申信仰は、江戸時代に盛んになり、講(グループ)が結成され、庚申供養塔があちこちの路傍に建てられました。
 その信仰というのは、60日ごとに巡り来る庚申の夜、眠り込んだ人の体内から三尸と呼ばれる虫が出て、天帝にその人の罪過を報告し、罰が下されるというもので、寝てはいけないと信じられていました。庚申堂や当番の人の家に集まった村人たちは、一晩中勤行をして夜明けを待ちました。その仲間を庚申講と呼んだのです。
 庚申信仰は、猿の信仰とも結びついていたので、青面金剛像のしたには三匹の猿が彫ってあります。
 ここの庚申塔は、どこに建てられていたかは不明ですが、延宝5年(1677)と元禄3年(1690)の銘があります。
 渋谷区教育委員会



所在地 渋谷区千駄ヶ谷5-10-9 (厚生保護会館) 

法学博士森山武市郎先生は昭和10年(1935)4月から8年7ヶ月の間司法省に保護課長及び保護局長として在任し高邁な識見と非凡な才幹不尽の情熱を傾けて更生保護事業の画期的な拡充強化を実現された昭和23年(1948)満57歳で逝去されたがその遺徳は全国の斯業関係者の追慕してやまないところである
 昭和37年(1962)5月 森山先生遺徳顕彰の会

 


所在地 渋谷区千駄ヶ谷2-35

  端円寺



 境内には『庚申塔』があります。



所在地 渋谷区千駄ヶ谷2-35 (端円寺)

 右側の享保5年(1720)のものには、天邪鬼を踏まえた青面金剛のほか、日月・三猿が彫られています。また、戒名が彫られているところを見ると、庚申塔を墓標に転用したものと考えられます。
 左のものは、造立年代は不明ですが、天邪鬼を踏まえた青面金剛・日月・三猿が彫られています。
 なお、この2基には、表面の上部に家紋が彫られているのも珍しいことです。また、いずれも塔の側面に稲穂をくわえた狐が彫られており、稲荷信仰が表現されているのも大変珍しいことといわれています。
 渋谷区教育委員会




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