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東京都渋谷区の歴史
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所在地 渋谷区広尾5-1-21

臨済宗
 瑞泉山 香林院



渋谷区指定有形文化財
 香林院茶室こうりんいんちゃしつ
     平成17年(2005)3月24日指定

 香林院茶室は、仰木魯堂おおぎろどうが大正8年(1919)に自らの茶室として設計施工したものです。
 魯堂は近代の茶室建築に深く関わった人物で、大正4年(1915)には、三井財閥の益田鈍翁(孝)の茶室で御殿山にあった為楽庵いらくあんの工事の一部を担当しました。
 近代の財界人による茶の盛行を主導したのは、鈍翁、団琢磨、高橋箒庵、原三渓らですが、魯堂はこの動きに深く関わり、茶人として高い評価を受けていました。
 かつて都心にあった財界人の邸宅には、このような茶室が数多くありましたが、戦災でその大半が焼失し、また戦後の再開発によっても多くが取り壊されました。魯堂の茶室もほとんどが失われ、数棟が現存するのみです。香林院茶室は、元の所在地に残されたものとしては唯一のものです。
 渋谷区教育委員会


渋谷区指定有形文化財
 
歴代頂相画 附 絶山宗信像(模本)
     平成17年(2005)3月24日指定

 「頂相ちんそう」は高僧の頂(頭部)の相貌という意味で、一般には、禅宗の肖像を指して用いられます。中国僧の頂相が伝来した日本では、鎌倉時代末期から室町時代にかけて臨済宗系の寺院で作成され盛行しました。
 臨済宗大徳寺派に属する当院の頂相画は、近世の作例で、開祖の絶山宗信ぜつざんそうしんから十二世の洞明宗仙まで、十八世紀初頭から二十世紀半ばまでの像が揃っています。
 香林院の頂相は寿像(生前の像)の多いことが特筆され、像主の容貌を忠実に伝えている可能性が高いものです。
 また、ほぼ全ての作例が、画賛の年紀などからその制作年代が判明し、多くの作例で絵師名が知られることから、頂相画の研究資料としても貴重なものです。
 渋谷区教育委員会


 香林院と大給恒おぎゅうゆずるの

香林院は、大給松平氏の菩提寺として、寛文5年(1665)に建立されました。開基は大給恒の先祖真次で、法名から寺号を香林院としました。
 大給松平氏は、松平一門として徳川幕府に仕えました。その本拠は三河ですが、竜岡城(現長野県佐久郡臼田町。国指定史跡)は、恒が造った江戸時代の最後の城郭建築で、函館の五稜郭とともに我が国には珍しい洋式の城です。
 恒は明治維新後に姓を大給と改め、新政府の要職に就きました。明治11年(1878)には、賞勲局副総裁となり、明治28年(1895)には、総裁となりました。日本の勲章制度の礎を築くとともに、彼が考案した日本古来の伝統に基づく勲章のデザインは現在も使われています。
 また、明治10年(1877)5月に、佐野常民らと日本赤十字社の前身である博愛社を創設し、常民とともに初代副総長となり、日本の医療・福祉制度の整備に努めました。
 大給恒墓は、この説明板の左手奥、祥雲寺山内の墓地にあり、大きな墓碑には「枢密院顧問官 正二位勲一等 伯爵 大給恒墓 明治四十三年一月六日甍」と刻まれています。
 渋谷区教育委員会
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